『櫻守』水上勉-花四季彩
■文学散歩考(その1)

『櫻守』水上勉(みずかみつとむ)著

1.趣旨

 水上勉の小説『櫻守』のモデル、笹部新太郎が晩年を過ごした神戸市東灘区岡本にあった笹部邸は現在、南隣地を含めて神戸市の都市公園(・・街区公園)になっている。神戸ゆかりの『櫻守』について文学散歩的考察を試みた。

■春・六甲山の山桜
2.『櫻守』の梗概

 <新聞小説>
 この小説は、昭和43年8月〜12月、毎日新聞に代表的現代作家20人の競作の企画で「現代日本の作家」の一環として発表された。
 <あらすじ>
 物語は、主人公の庭師北弥吉の幼い日、山桜が満開である在所の京都府北桑田郡鶴ヶ岡村の背山を木樵の祖父と登って行くところから始まる。
 弥吉はそこで初めて山桜の名を覚えた。
「祖父は小舎の前に木端をあつめて火を焚いた。母とむきあって、話しこんでいた。話の様子は、父のことらしい。弥吉はのけものにされた思いがして雑木山へ入り、岩なしをとった。-略- 口のはたが、実の色で染まるほどたべて、弥吉は小舎に走り戻った。すると、祖父と母は小舎のまわりにいず、火が消えていた。弥吉は急に淋しくなって、尾根づたいに桜山の方へ歩いた。と、不意に足もとから、母と祖父の笑う声がした。満開の桜の下だった。遠目だからはっきりしないが、かわいた地べたに、白い太股をみせた母が、のけぞるように寝ていて、わきに祖父がいた。家では、いつもいらいらしている母が、楽しそうにはしゃいでいる。弥吉はいかにも秘密めいた感じが、そこにあるような気がした。呼ぶのに気がひけて、しばらくだまってみていてから逆もどりした。見てはならないものをみたような、一瞬、はずかしい気持ちが襲った。弥吉は眼を閉じて歩いた。と、立止った所に、一本の桜があった。小菊の花でもみるような、薄紅の花びらを何枚もかさねた大輪で、一匹の蜂が花の中へ頭をつっこんでいた。峰は蛹型の尻を小きざみに振った。蜜をすっているのだと思った。」
 その日、満開の山桜の樹の下で久しぶりでついてきた母と祖父の情事の余韻を見る。この情景は弥吉の心に深く焼き付けられる。

■やまざくら

まもなく祖父は死に、母は宮大工の父に離縁される。その後、弥吉は新しい母になじめず、実母を思って暮らす。
 14才のとき、京都の植木屋「小野甚」に奉公する。そこで生涯の友であり、先輩である、石に詳しい庭師橘喜七に出会う。その喜七の紹介で、大阪中之島の資産家の次男で東大を出て、生涯無位無冠で桜一筋に情熱を傾ける桜研究家竹部庸太郎の雇い人となった。弥吉は竹部が持っている武田尾の桜演習林や向日町の桜苗圃などで特に接木や接穂作りなど山桜の種の保全と育成、普及の研究の下働きをすることになった。 そんなある日、竹部と弥吉は武田尾の演習林からの帰り道、どうしても通らなければならない福知山線のトンネルの中で臨時列車に遭遇する。列車の煤を洗うため立ち寄った武田尾温泉の「まるき」で弥吉は仲居の園と出会う。その奇遇で弥吉と園は、周囲のすすめもあって結婚する。

■武田尾温泉 ■旧福知山線から演習林を望む ■旧福知山線のトンネル(2番目)

 ふたりは桜が満開の演習林の番小屋で初夜を迎える。滝よこの里桜の楊貴妃は番小屋の屋根にとどくぐらい枝が垂れていた。
「弥吉が腕をはなして、畳へ眼をやると、乱れ髪がながれて、楊貴妃の花弁が一つ、小貝をつけたように着いていた。弥吉はうっとりとそれを眺めた。」
■さくら接ぎ木 ■さとざくら(楊貴妃)



 そしてふたりは武田尾の番小屋で新婚生活を始める。

■亦楽山荘→宝塚市桜の園公園 ■亦楽山荘の桜→樹幹を他の大木が被いつつある。 ■隔水亭=竹部(笹部)研究室
 時局は逼迫し、武田尾の桜山も向日町の苗圃も例外ではなかった。武田尾は松の供出を迫られ、向日町の苗圃は地目が畑地であったことや不在地主に認定されたことから食糧増産のため買い上げられる羽目に陥った。
 そんななかでも、竹部は名木ありと聞けば訪ね、その接穂をもらい受け、日本の伝統的桜を残そうと私財を投じて、何百本もの名木の接木や実生を育ている。
「損も得もない。先生は自分の財産をつこうて日本の櫻を育ててはんのや」
 と弥吉は竹部を尊敬している。
 弥吉は菊桜など接木について竹部からかなりの手ほどきを受けた。失われたといわれる「太白」という品種をイギリスの桜研究家が日本への里帰りを支援するとの話に、竹部は密かに「太白」を接木して持っていた。
 弥吉と園は日常生活を考えて、竹部の許しを得て武田尾から向日町の苗圃にある小舎へ移り住む。「ここは数千本の山桜の苗木の園である。」造幣局、橿原神宮参道、琵琶湖近江舞子、根尾、みなこの苗圃で育て、竹部が植えたものだった。
 秋のある日、根尾の薄墨桜の桜守、宮崎由之助の甥が出征前の寸暇をやり繰りして叔父の死を竹部に伝えに来た。
 この向日町の苗圃で弥吉は竹部から桜栽培のこつを熱心に教えられた。
 竹部は桜に明け暮れていた。竹部の父親が変わっていたらしい。
「大学にゆくのはいいが、月給取りにはなってくれるな。月給を取らずとも、一生どうにか暮らせるだけの物は残しておく。そのかわり、お前は、どんなことでも、白と信ずれば白と云い切る男になれ。お前の母親は二つの時に死んでいる。母の顔を知らないお前に、こんなことをいうのもわしの慈愛だと思え」と教え、当時としては高価なカメラも買い与えたと云う。また、大学の和田垣謙三教授は、「-略- 生涯をかけろ。日本一の桜研究家になれ」と励ました。
 竹部は学者のように机上でものを考えるのでなく、研究家であると同時に実践家でもあった。彼の持論は、古代より日本の伝統の櫻は朱のさした淡緑の葉とともに咲く山桜(里桜も含む)だ、近頃、流行っている染井吉野は違う、と主張する。また、学者は視野が狭く、造園業者は金でしか考えないし、役所、役人は長期的視野に立っていない。植樹はするが、日常管理など後の地道な保全育成に何の見識もない、と断じ、桜の衰退を嘆いた。
 園は、なぜ竹部は桜気ちがいのようになったのだろう、と訊く。弥吉は密かに桜の木の下の祖父と母を思いだし、早く母を亡くした竹部にも、一生忘れられない、同じ風景があるのではないかと思った。そして心の中で竹部も弥吉も桜のために生まれてきた人間だと思う。
 昭和20年3月、弥吉に徴用が来た。行き先は舞鶴軍需部だった。その少し前、園に妊娠の兆しがあった。舞鶴では本土決戦に備えたタコ穴掘りの日々だった。
 3月中頃、鶴ヶ岡から召集令状到達の知らせが電報で届いた。弥吉は伏見の輜重輓馬隊に入隊することになった。弥吉は妊娠のはっきりした園と新婚生活を送った武田尾の演習林に行く。そして園と楊貴妃の花のイメージが重なる。弥吉は園を狂おしく抱き、遅咲きの八重が散る下で、母が白い足を陽なたに投げ出してはしゃいでいた情景を思い出していた。園の顔と母の顔が重なった。
 その夜、ふたりそろって、岡本の竹部に別れを告げに行った。
 軍隊は苦しかったが、8月15日弥吉は終戦の詔勅を聞いた。
 実家に帰ると、父から実母が再婚した岐阜のつれ合いに死なれ、雲ヶ畑に戻って百姓をしていると聞く。しかし、弥吉は母に会わずに京都の喜七を訪ね、園も含めて、喜七の所に世話になる。弥吉と喜七は小野甚で培った人脈を辿って、野菜売りをして戦後を乗り切る。
 園は長男槇男を産んだ。昭和23年4月、弥吉と喜七は小野甚に復帰し、待望の庭造りを大喜びで始める。
 初仕事は料亭「八海」の新しい庭造りだった。しかし、設計家は、東京から来た大学出の若い造園家だった。彼の設計意図は花木のにぎやかさと石組みの豪華さだけを強調した外人好みの庭造りだ。特に桜の植え方では、里桜の普賢象を築山の常緑樹のうしろに隠し植えよ、と若い設計者は言う。弥吉の思いとは違う。

■六甲山深山の桜:松坂龍雲氏提供
「桜はうしろに常盤樹をめぐらせて屏風にしなければ映えない。これは常識だった。空に向って咲くのでは空の色に吸われるのである。」竹部はいつも言っていた。
 世の中は表面的な美がもてはやされる中、桜をかわいがる人もいた。京都広沢の池の宇多野は京の桜の母親であり、と竹部は日本の桜の父親といえた。
 昭和29年38才の弥吉は京都・鷹峰に家屋敷を買った。昭和36年、弥吉45才、園42才、槇男16才になっていた。喜七は50才半ばをこえ足を痛め、息子の喜太郎が跡を継ぎ、弥吉がその親方だった。
 昭和36年4月、弥吉は新聞紙上で名神高速道路建設により、桜を守るための砦としての向日町苗圃が数百本の桜とともに消えゆくことを知った。弥吉は竹部に会いたくなった。
「岡本の駅で阪急を降り、弥吉は、なつかしい川沿いの道を歩いた。」
「鉄扉をあけて弥吉は「京の植木職の北ですねや」といった。」「竹部は柔和な老爺の貌をほほえまして、そこにのっそりと立っていた。」そして竹部は向日町の桜苗圃の件ではごね得と言われ、心を痛めている経緯を話し、20年以上土作りをしてきた桜苗圃のなくなることを憂えた。


 そのときすでに竹部は庄川の御母衣ダム建設に伴う樹齢400年以上のエドヒガン2本の移植を引き受けていた。電源開発公社芹崎哲之助の熱心な依頼に寄った。「-略-、 四百年も生きた老木、しかも桜の移植など聞いたことがない。  -略-」「竹部は今日七十五歳である。桜一途に生きてきて、すべての財産を投じて、桜の品種改良と日本古来の山桜の育生に身をけずる思いできた。その今までの努力はわかるけれども、老境に入って、前代未聞の老桜の移植をひきうけている。 -略- もし不成功に終わったら、竹部は今日までの桜にそそいだ人生を棒に振りはしないか。-略- 弥吉はそう思った。」「松や桜は移植に弱い」
 しかし、竹部は辛苦の末、この老桜2本の移植に成功した。
「湖水は両側の山影をうかべ、ちりめん皺をたてて鏡のように凪いでいた。二本の桜は、新しい枝を張って芽ぶいた若葉のあいまからうす桃色の美しい花をのぞかせて、春風にゆれていた。」
 弥吉の息子、槇男は高校を終え、音楽家になりたい夢を抱きながら、弥吉の後を継いだ。
 昭和38年5月、鶴ヶ岡の弥吉の父が死んだ。
「若い頃は宮大工としてよく働いた父だが、いまの義母と一しょになってから、働かなくなり、戦後は、まったくののらくらで、義母と長男が田を作り、
生活を支えてきた。弥吉の母を追いだしたあたりから、父の性格に暗い墨が
入ったようである。生涯、父は弥吉に母を捨てた理由をいわず、仏頂面を押しとおして、死んだのであった。」弥吉も実母を訪ねていく勇気はなかった。
 気持ちは複雑だった。弥吉は実母を恨んでいなかった。「実母の姿は憧れの中で生々としている」「弥吉の思い出の中では、母は美しくて、それでいて、どことなく、背姿が淋しかった。」
 昭和39年10月12日、弥吉は死んだ。死ぬ前に「お前らにいうとく。わしが死んだら、海津の清水の墓に埋めてくれ。寺に頼んでくれ。あすこの桜は立派な八重やった。-略- 」と桜の木の下で眠ることを頼んで死んだ。享年48歳、膵臓癌だった。
「-略- わたしは、まあ、好きやから、今日まで桜、桜というて生きてきましたけど、北さんが、なぜこんなに桜がすきやったか……そのわけを聞かずじまいに終わりました」と謎を投げかける竹部であった。
 そして参列者みんなで見上げる桜は?
「墓地の大桜が、朱の山を背に黒々と浮きあがる気がした。」
                            

 <主な登場人物> 
神戸市在住櫻研究家:竹部庸太郎、竹部の妻、
庭師:北弥吉、その妻:北園、その子槇男、園の兄:虎市、
木樵の祖父、実母:田所ちい、父、義母、
小野甚の先輩庭師:橘喜七(石の喜七)、その子喜太郎、小野甚の先代:甚一郎、小野甚の息子;甚市、
武田尾たまやの経営者佐々木賢一、大工の清水、職人頭:音山、
嵯峨野の造園師:宇多野、根尾の薄墨櫻の櫻守:宮崎由之助、
東京の若い造園家、電源開発:芹崎哲之助

3. 主人公について

1)主人公の共通性

 水上文学の主人公は、共通のところが多い。『雁の寺』では主人公の小僧、慈念は「頭が大きく、躯が小さく、片輪のようにいびつに見え」「ひっこんだ女、白眼をむいたあの眼つき。誰にも好かれないような風貌」「ひどい奥眼」「奥眼をきらりと光らせて」「軍艦あたま」などと表現されている。『越前竹人形』では主人公氏家喜助は「片輪のような小男だ」「ひっこんだ眼、とび出た頭、大きな耳。浅黒い肌。子供のように小さいが太い指。躯全体がかもし出す雰囲気は異様である」「ひっこんだ眼が鋭く光っているのも」と。『五番町夕霧楼』では主人公櫟田正順は、イガ栗頭でやはり後頭部が飛び出し、ひどいどもりのため、無口でつきあいにくい、とされている。
 また『櫻守』では主人公北弥吉は「背丈は五尺そこそこのチビで、顔は小造りで鼻が低く、陰気な感じだ。その顔に反比例して、生椎茸みたいな、大きな耳を持つ弥吉」「背丈が足りないというだけの理由で丙種になり、つまり国民兵役に編入された」とまた現れた。
 水上文学は主な主人公の共通する表情や姿形から何を言おうとしているのだろうか。なぜ、そうでなければならないのだろうか。それは簡単に答えが出ない。それゆえに作者は繰り返しその答えを追求した結果が、彼の作品群の中で一貫して、屈曲した反抗者、ひねくれ者を歩き続けさせ、生き続けさせている気がする。その意味で水上勉と彼が作りだした『雁の寺』の慈念を始め多くの登場人物たちがどこか私たちの様子を密かに窺っているかもしれない。故郷、若狭青葉山の樹海の暗黒や幽気と、山が美しく海に没する夕景にイメージされる、美しさと恐ろしさを兼ね備えた若狭の得体の知れない風土。その貧困の風土を生きるために、あるいは『霧と影』の主人公のようにそこから逃亡するために、殺戮や情欲や官能や厳しい自然、そしてときには主人公と同じ重みで「風景」が絡み合い、渦巻き、その正体を暴き出そうと水上文学は人間の宿命や業に迫る。風景とはランドスケープの世界では「我々を取り巻くすべてのもの」と定義している。人間、大地、宇宙、景観、自然、環境、多様な動植物、文化、慣習、風習、伝統、態度などすべてが含まれ、織りなされて構成されていると考えているが、水上文学は一つの風景論とも言えよう。そしてさらに風土論に近づきつつあるという気がする。
 景観は10年、風景は100年、風土は1000年を経て、そこに住む人々とその子孫の生活や宿った怨念や思いと自然が混沌として混じり合うことによって培われる。

2)薄幸の女

 水上文学の作品群には、うちに芯の強さを秘めているが、自分の運命を受け入れてしまう人間の業の深さを背負った薄幸の女が登場する。『越前竹人形』の玉枝、『雁の寺』の里子、『湖北の女』の浅子、『おしん』のおしん、『越後つついし親不知』のおしん、『五番町夕霧楼』の夕子、『はなれ瞽女おりん』のおりん、そして、『櫻守』の弥吉の母、田所ちい等。  
 作者は実生活でも年上の女との同棲や二度の結婚など、憧れの女? を求めて遍歴する。それは作品の中で、女性というより、どちらかというと母に対するような美しい憧れに似た思いが反映されていると思う。

3)母への思慕

 母に対する美しい憧れに似た思いを裏付けるものとして、水上文学の根底に母への限りない思慕が隠されているように思う。水上勉はまだ母に甘えたい幼さが残っている10才のとき、人減らしのように京都の寺に小僧に出され、淋しい思いをした。それ故に作者の心底には、消すことのできない母への憧れと深い思慕があるように思える。『雁の寺』の慈念には作者を重ね、『越前竹人形』の氏家喜助は三歳の時、死に別れたとしてつらい母への思慕を絶っている。『櫻守』では祖父とのただならぬ関係を問われたのか、理由ははっきり語られることなく、読者へは暗示にとどめ、離縁されて在所に帰った母への限りない思慕が随所に出てくる。


4)作者の視点→北弥吉の視点 
 『櫻守』新潮文庫の解説で福田宏年氏は、「しかし、(水上勉は)『櫻守』という小説を書くに当って、桜学者(野元は竹部あるいはモデルの笹部氏が学者でないことを自ら強調し、学者を公然と非難していることから、敢えて“桜研究家”と呼びたい)の竹部庸太郎を敢えて主人公とせずに、竹部に教えられながら、竹部の感化を受けて桜の保護育成に目覚めて行った一人の庭師を主人公に選んだところに、水上勉の水上勉たる所以がある。つまり、竹部の桜に寄せる情熱には敬意を払いながらも、然るべき学識を以て、学問的、組織的に桜の育成につとめる竹部は、水上勉の感性には究極のところで馴染まないものがあったのだろう。竹部の学問的ともいうべき情熱を、一介の庭師の姿を借りて、土着的、感性的なものに移し替えたところに、水上勉の本領があると言うことである。」といっている。そういう見方も成り立つと思うが、一般的小説の書き方からいっても低い視点から書く方が視野も広がり、かつ深みが出て、読み手は受け入れやすい。

 水上勉はなぜ弥吉の視点で書いたか? 前述した1)主人公の共通性、2)薄幸の女、3)母へ思慕のうち、特に1)の理由から水上勉は決して笹部新太郎を主人公にしなかったであろうことは明白であろう。

4. 作品のテーマ
 作者の郷土に近い丹波の山奥の風土に根源を置きながら、大阪の資産家の次男、桜にすべての私財と情熱をささげ、日本古来の山桜種の保存と育成に人生をかけた実在の人物笹部新太郎をモデルに、その業績を同じく桜に情熱を注ぐ一介の庭師北弥吉の眼を通して描いた。そして究極のテーマは桜に表象される失なわれゆく日本の美に対する限りない哀惜であろうが、私にはまた失われゆく日本の風土への警鐘のように思えてならない。また水上文学が常に探求してやまない「人間の業とは何か?」がテーマではないだろうか。

5. 作品のサブモチーフ
 『櫻守』は一見、桜研究家笹部氏をモデルに彼の稀有の業績だけを書いているように見えるかもしれないが、この小文の2.『櫻守』の梗概<あらすじ>の冒頭の引用文に水上文学が求め続けるテーマがこの小説のサブテーマとして何気なく示されており、「人間の業」とは何かを問い続けている。『櫻守』では、
ラストを含めて全編の7箇所でこのサブテーマを私たちに投げかける。私は弥吉と園の「初夜」及びその関連記述もサブテーマの問いかけであると思っている。

6. 作品と桜について (参考文献:吉野山桜物語)
 <主な櫻>→作品に出てくる主な桜は漢字で表記。
       ┏ ヤマザクラ  ┓→山桜、八重、二度桜、ぜんまい桜(=淡墨)、墨染                                                    

・ヤマザクラ群┫ オオシマザクラ┣→サトザクラ→楊貴妃、菊桜、太白、薄墨、普賢象、天の川、虎の尾、紅提灯、魁桜 

       ┗ オオヤマザクラ┛       桐ヶ谷(=御車返し)、八重有明                                          

・マメザクラ群 

・エドヒガン(アズマヒガン)群  →しだれ桜、彼岸桜、荘川桜(=彼岸桜)、糸桜(=枝垂桜)、八重                    

・カスミザクラ群

・カンヒザクラ群

■交 配 種→染井吉野(=エドヒガン+オオシマザクラ)、蒲桜(=エドヒガン+ヤマザクラ)、不断桜(=ヤマザクラ+オオシマザクラ)、笹部桜(=カスミザクラ+オオシマザクラ) 

■ 笹部桜(ササベサクラ)
 カスミザクラとオオシマザクラ系との交配種である。落葉高木。4月中旬に
若葉とともに咲く。日本古来の山桜の伝統を受け継いでいる。

<接木の仕方と土の大切さ>
・ 桜は湿地を嫌うので、排水のいい肥沃な場所がよい。それと陽樹だから、陽あたりのよいのが条件である。
・ 台木はヤマザクラ、オオシマザクラ等を使う。 

<若い大学出造園家論争>
「桜はうしろに常盤樹をめぐらせて屏風にしなければ映えない。これは常識だった。空に向って咲くのでは空の色に吸われるのである。」竹部はいつも言っていた。
■ 『築山庭造伝』1737年(享保20年江戸時代)に次のような記述がある。
・ 夕陽木 樹ハ楓また梅桜花物か照葉紅葉物を植べし。夕陽たる名を考ふべし、図のごとく一景を離れて独景をなす、依って夕陽と云なり、故に花物紅葉物の類を以て植る、若又緑りものなら花物紅葉物を植込で愛ろふべし、一壺の一備えたる樹なり。
・ 桜ハ第一切事嫌ふ木なり、植るにも大木ハ接難き物なり、小木にても根を切てハ接がたしとしるべし、枝ぶり切らずして、括て直す、数々衆類を植える時ハ、間あいだに松を植てよし、常磐色と花紅ひの取合能見斗ひて造るべし。
(注)平安時代の造園書としては『作庭記』が有名であるが、奥義は口伝が多く、その後あまりなく、『築山庭造伝』は江戸時代の有名な書物である。


7. モデル笹部新太郎と相違考
 小説とは、必ずしも事実を書く必要はない。テーマやモチーフを活かすために、作家の心を通して事実を真実に高める必要がある。本稿もそのような視点に立って、作家が事実をどのように心のなかで加工したか検証してみたい。
 1)比較表

年  号 モデル:笹部新太郎 小説:竹部庸太郎
1887(M20) 大阪堂島で大地主の次男として誕生 大阪中之島の資産家の次男として出生
1889(M22) 母逝去 同左
1912(M45)

和田垣謙三博士と出会う

東京帝国大学法科大学卒業

武田尾演習林「亦楽山荘」造営

同左
1920(T9) 旧庄内藩主伯爵酒井忠崇長女梅子と結婚。音大出の美人、社交界の華、才媛。女性初のゴルファー、乗馬、テニスに堪能。後に離婚、子供なし、1958(S33)に逝去。 東北のえらい大金持ちのお嬢さんと結婚。
女優みたいにきれいな人、病身、乗馬、ゴルフ堪能。1940(S15)に逝去。
1960(S35) 電源開発公社初代総裁高碕達之助の依頼で御母衣ダム「荘川桜」の移植を指導。長年住み慣れた大阪から神戸岡本へ転居。 電源開発の元会長芹崎哲之助の依頼で、御母衣ダムの「荘川桜」の移植を指導。小説では中之島にも家があったが、空屋にし、初めから岡本に住んでいたことしている。
1968(S43) 水上勉の取材訪問 新聞小説・8月〜12月連載。
1969(S44) 小説『櫻守』新潮社より出版。
1978(S53) 12月19日午後6時老衰のため逝去。
1981(S56) 岡本南公園開園(笹部邸跡)
1982(S57) 西宮市から笹部氏の桜資料を白鹿記念酒造 へ預託。
1985(S19) 岡本南公園の桜、笹部ざくらと命名
1992(H4) 岡本南公園拡張完成。
1999(H11) 武田尾演習林→里山公園「桜の園」開園。

2)その他小説と現実の狭間
・ 「川沿い道を歩きながら、-以下略-」は実際の笹部邸は阪急岡本駅の北西のほとんど線路沿「にあり、川沿いの道とは相違する。小説のとおりなら、梅林で有名な「岡本公園」へ行ってしまう。駅からすぐ着いてしまうのでは、情緒もないので、そうしたのであろうか。
・ 弥吉は橘喜七と1943年6月に阪急岡本駅で下車して、竹部邸に伺ったことになっているが、笹部は1960年(S35)まで大阪に住み、同年に岡本は転居した。

■亦楽山荘の渓谷?
・ 武田尾の研究室は『隔水亭』と呼ばれ、滝の側にあったらしいが、水上勉も記録しているように演習林の渓谷? はそんなに水量が多い方ではなかったようだ。それは今の現地も同じだ。しかし、水上勉はこの沢の情景を絶景にまで高めた。例を上げれば、「水しぶきをあげる滝の両側は、桜と楓が植えてあるので、ぬれた岩面に木もれ陽が降りかかると、春も秋も、息を呑むような絶景だ。」また「初夜」の情景も「滝の音が高まってきた。弥吉は夢中になって園の頬を吸った。自分の躯と、園の躯が一しょに滝壺へ落ちてゆくような、生涯忘れられない記憶になった。」等である。水上勉は『花守の記』桜の章で『櫻守』の取材の時だと思うが、笹部新太郎の言葉を記している。
“「私の夢は、この谷奥に、桜寺を建立することでした……」と氏は笑っておられた。”と。そういう意味で作家とって、ここは絶景であったとしたかったのかもしれない。

・ 既述したように小説の中で竹部氏の妻と笹部の妻の取り扱いが違う。実際は生きている人物を亡くなったことにしている。作者はあまり触れたくなかったのかもしれない。竹部が園に言った言葉が気になる。
 「二階の窓から、桜山をみてるような女ごにはならんで下さい。山の自然は 美しいというても、これは、なかなかのことで美しいのやおへん。男が鉈もって、藤つる切って、荒れんように手を入れてこその山。美しい眺めどっさかいな。花もまあ、はたから眺めて、美しいにはちがいはありませんが、植木屋の奥さんだけは、その裏側を知っとってもらわんとかないまへんえ」
・ 「二十三番トンネルは百二十一。次のは九十八どしたかいな」
 ここのトンネルの枕木の数は、確か現地では武田尾側の方が短いと思います。初めの方は少しカーブしていますが……。
・ 「八重有明」を山桜としているが、これは里桜である。
・ 『泰白』は『太白』と書く方が一般的である。水上勉は後に毎日新聞から発刊した『花守の記』の「桜の章」では、「“泰白”は“太白”とも書く」と記している。
・ 「接着後の桜の特性で、いくらかしおれてみえる菊桜の接穂の頭に指をそわせて、しばらくみつめていた。」は心理的描写である。芽しか着いていないので、接穂にも台木にもしおれを見れる要素がない。
・ 下記のように後半の園の描写は、ここまでの園の人物描写では、従順な大人しい控えめな女として書かれており、そう感じなかったので、唐突だ。
A「派手好きで」「何かと他家と比較して物をいう園」がB「地味で、がまん強く、節約型の女に」変わってゆく様子と書かれているが、ここまでずっとBを基調として書いて来られたように思う。
・ 「園……わしはちょっと、西宮へ行ってくる」は、竹部邸が神戸岡本にあるので、ちがうが、モデル笹部新太郎が西宮市の越水浄水場の桜など関係が深く、彼の遺言でも桜の資料はすべて西宮市に贈る、となっていた。それは西宮市から白鹿記念酒造博物館に寄託されていて、見ることが出来る。このように西宮市と笹部氏の縁が深いことから、いつも笹部氏が岡本を西宮と呼んでいたのかもしれない。また武田尾からは、一山を越えれば、また一駅汽車に乗れば、西宮だったから、町にゆくことを“西宮”へ行って来る、と言ったかもしれない。作者はそれを知っていて、弥吉にそういわせているのだろうか。

8.作品の舞台
<主な舞台>
鶴ヶ岡:弥吉の在所。雲ヶ畑:弥吉の母の在所。
武田尾:櫻研究家竹部庸太郎の演習林、竹部の研究室『亦楽山荘』、約70ha  の山桜の園のある温泉町、弥吉・園夫妻の初夜と新婚生活の地、現在宝塚市の 『桜の園』。
武田尾温泉の古宿:「たまや=まるき?」「河鹿荘」「武庫川館=紅葉館?」「やまだ=元湯旅館?」。
向日町:今の向日市、弥吉・園が住んだ番小屋、竹部の櫻の苗圃(約1ha)の地、神戸市東灘区岡本:竹部の家、現在『櫻守公園・岡本南公園』、
 中之島:竹部の本宅。切畑:園の在所、竹部山(=大峰山552.4m)の尾根を南へ逆に降りた高台地、戸数30戸の部落。
舞鶴:弥吉が徴用され、本土決戦の蛸壺掘りをした軍港。伏見:弥吉が召集された輜重輓馬隊の駐屯地。
高峰:京都市北西、昭和29年に弥吉がニを構えた地。近くに光悦寺、然林房、光悦茶家、源光庵、常照寺がある。
御母衣、荘川:御母衣ダム建設に伴う老桜移植の地。
海津の清水:琵琶 湖西のマキノ町海津、八重の彼岸桜の老桜があり、弥吉はその逢坂の桜の樹の下で眠りたいと望む。弥吉の「終の栖」

9.『櫻守』と岡本南公園(通称:桜守公園)

 1960年(S35)笹部新太郎は大阪から神戸市東灘区岡本5丁目5(旧表示:本山町岡本225)の当地に越してきた。笹部氏の死後、この屋敷跡は神戸市に買い上げられ、1981年(S56)二人の造園家、当時奈良女子大近藤公夫教授及び日本庭園の設計家中根金作氏の指導により『桜守公園』として整備、開園された。園内には、小説『櫻守』にも出てくる御母衣ダムで移植したエドヒガン(荘川桜)の分身や同じく小説の中で”京都広沢の池の宇多野は京の桜の母親”と出てくる宇多野のモデルである15代佐野籐右衛門から贈られたしだれ桜もある。1992年(H4)南側の用地が買い増され、約2倍の面積の公園に拡張された。なお、笹部氏が自ら育てた実生原木の笹部桜は震災後枯死したが、念のため離宮公園で挿し木されていた後継樹が現地に植えられ、春の満開には私たちを楽しませてくれる。

10.その他
 梶井基次郎の『桜の樹の下には』新潮文庫からその冒頭を引用する。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
 
『櫻守』では、主人公、庭師北弥吉は、
「わしが死んだら、お寺さんにたのんで、そこへ埋めてくれ……息ひきとる時にも、かいず、とそれだけいうて……」
 と琵琶湖西畔のマキノ町海津「清水」(しょうず)の桜の樹の下に埋めてほしいと遺言して死んだ。また根尾の薄墨桜の櫻守だった宮崎由之助の死を伝えに来た彼の甥が帰った後、竹部は弥吉に言った。
「宮崎さんは、私も好きな人やった。薄墨の桜守りで一生をおくった。うらやましいひとです。桜の横に寺を建てて、生きているうちに居士名をもろて、いまは、日本一の花の横で眠ってはります」と。そしてこの小説のモデル笹部新太郎は、取材の水上勉に武田尾の演習林の谷奥に桜寺を建立することが夢と話した。それもまた、桜の樹の下永眠願望と受け取りたい。ちなみに笹部氏の戒名は『徹心院桜誉陽山一道居士』である。

■上の写真は岡本南公園の笹部桜だが、下の写真が笹部氏が庭に実生から育ていた頃の写真。笹部桜は同じで、岡本南公園でも同所に存置された。この桜は残念ながら、1995年1月17日の震災後、枯死した。今は挿し木で育った二代目が現地にある。

■参考文献等

新潮現代文学45「水上勉編」、『文学放浪』新潮文庫、『櫻守』水上勉著・新潮文庫、『20世紀全記録』講談社、『資料による日本史』、『作庭記』、『築山庭造伝』、『花守の記』水上勉著、『貧困について』他多数。