『旅の絵』堀辰雄-花四季彩
■神戸文学散歩3
『旅の絵』堀辰雄著 〜神戸・元町・三宮そして神戸の詩人竹中郁
*<>は原文引用
1.初出とこの作品の書かれた背景
・『旅の絵』は1933年(S8)9月 堀辰雄29歳のときに「新潮」に発表された。
・この小説は28歳の堀辰雄が、1927年(S2)4月芥川龍之介宅“澄江堂”で知り
▲ユーハイム(神戸外国人居留地京町線突き当たり付近)▲トアホテル(トアロード突き当たり)
合った神戸の詩人竹中郁の第4詩集『象牙海岸』の出版記念会に出席するため、<小さなトランクひとつ持たない風変わりな旅行者>として1932年(S7)12月23日、神戸に来た小旅行を題材にして書かれた。堀辰雄は前年から病状の悪化などと重なって堀辰雄はある精神的な不安を抱えていた。その身体の不調をおして竹中郁との友情のために神戸を訪れた。なぜ堀が来たかは、竹中郁との友情と心のなかに抱える不安を紛らせるため、みなと神戸のエキゾチックさが魅力だったからではないか。竹中郁はそんな堀の宿を探したり、自宅に泊まらせたりして神戸を案内する。
・この作品の中にも神戸の詩人竹中郁は<須磨のT君>として登場し、T君と宿を探し、南京町、トアロード、東亜ホテル、外国人墓地、異人館街、ドイツ菓子屋「ユーハイム」などともに徘徊する。そして須磨の竹中宅にも泊まる。
・その旅愁を小説にしたものであり、いわゆる“神戸もの=『旅の絵』『鳥料理』”
のひとつであり、
・芥川龍之介の最後の恋人片山広子とその娘総子(宗瑛)との物語
『ルウベンスの偽画』『聖家族』『物語の女』『菜穂子』など
・婚約者矢野綾子との物語『恢復期』『美しい村』『風立ちぬ』など
・自伝的物語『向島』『幼年時代』『花を持てる女』『燃ゆる頬』『麦藁帽子』など
・伝承・民俗・日本古典の物語『かげろう日記』『大和路・信濃路』『樹下』など
堀辰雄の小説の系譜からいうと、『旅の絵』は特異な作品といえよう。堀辰雄は異人館街を回る内に心を癒されたらしいことはこの作品から読みとれるが、神戸新聞総合出版センター刊『名作を歩く』神戸新聞文化部編の<神戸は堀文学の転換地であるのだ。>という説は新しい視点として評価したい。しかし、野元は、<異国の中の祖国を感じ取り、神戸旅行を日本文化を見つめ直すきっかけとした。>という展開は、やはり、・の伝承・民俗・日本古典の系統からの究極の到達点であり、転換点である、とするのが妥当ではないかと思う。
・1930年(S5)『聖家族』を脱稿、文壇では好評であったが、喀血し、自宅療養。その後も思わしくなく、翌年1931年(S6)4月から3ヶ月間、富士見高原療養所に入院し、退院後軽井沢で静養した。そのとき、『恢復期』を書く。1932年(S7)になっても健康は好転しなかった。また、健康問題だけでなく、私生活の人間関係がうまくいかず、心身共に疲れ切っていたのだ。したがって、堀辰雄にとっては、東京から神戸への小旅行は暗い気分を晴らす逃避行でもあったのだ。
・『旅の絵』にはその心の澱を重い苦しい心理を情景描写に託して表現している。<私たちはそれからマカロニやら何やら食べて、その店を出た。そうして私たちはすぐ近くの波止場の方へ足を向けた。あいにく曇っていていかにも寒い。海の色はなんだかどす黝くさえあった。おまけに私がそいつの出帆に立会いたいと思っていた欧州航路の郵船は、もうこんな年の暮になっては一艘も出帆しないことが分かった。私の失望は甚だしかった。そうしてただ小さい蒸気船だけが石油くさい波を立てながら右往左往しているきりだった。>
・そんな堀辰雄の心を癒したくれたのは、異人館街の北野であった。<山手のこのへんの異人屋敷はどれもこれも古色を帯びていて、なかなか情緒がある。大概の家の壁は草色に塗られ、それがほとんど一様に褪めかかっている。そうしてどれもこれもお揃いの鎧扉が、或いはなかば開かれ、或いは閉されている。多くの庭園には、大粒な黄いろい果実を簇がらせた柑橘類や紅い花をつけた山茶花などが植わっていたが、それらが曇った空と、草いろの鎧扉と、不思議によく調和していて、言いようもなく美しのだ。──中略──。私は私で、こんなユトリロ好みの風景のうちに新鮮な喜びを見出している。こんな家に自分もこのまま半年ばかり落着いて暮らしてみたいもんだなあと空想したり、>と正直なきもちでここに住みたいと言っている。
2.あらすじ
・ホテル・エソワイアンでの朝の目覚め、朝食時の食堂の風景、汚らしく
枯れたままの中庭。“私”の憂鬱な気分が流れて暗い。
・小さなトランクひとつ持たない風変わりな旅行者“私”は神戸駅に降り立つ。神戸の友だちT君を呼び出し、日が暮れ薄暗くなり始めた北野界隈をさまよった末、中山手通りに面した小さなロシア人経営の外国人ホテルが気に入って投宿する。ホテルの部屋は下宿しているロシア人の男がいるらしく、その人の持ち物らしい独乙語版ハイネ詩集の巻頭『五月に』をうろ覚えの語学力で読む。なんだか明るく甘美そうに受け止める。
・翌朝の昼頃から、T君の案内で神戸の街を見て回る。初め1時間ばかり何処か場所は特定できないが、おそらくトアロード沿いの古本屋とか古道具屋をひやかし、海岸通の仏蘭西料理店ヴェルネ・クラブでマカロニを食べながら、かわいい三毛猫を風呂敷包みに入れた美しい、小柄な仏蘭西人らしい女性の仏蘭西語のやり取りを聞く。その後、メリケン波止場へそして、作者の気持ちを映した前述の憂鬱な情景描写となる。海岸通の薬屋のショーウインドウで海豚叢書の「プルウスト」を買った。
それから居留地の商館の間をぶらついて、<南京町を肩をすり合わせるようにして通り抜けたりしたのち>トアロードを<東亜ホテルの方へ爪先あがりに上った。その静かな通りには骨董店だの婦人洋服店だのが軒なみに並んでいる。> ネクタイ屋を覗こうとしたら、その店の二回のバルコニーからシェパードに吠えられる。聖公教会の前に屯するホームレスや車が何台も店先に停まっている花屋の情景が絡み合って“私”は<今夜がクリスマス・イヴであるのを思い出させた。>
“私”の提案で外人墓地(今はすべて外国人墓地と表記している。)へ行くことになったが、北野の異人館街をさまよい、ユトリロ好みの風景のうちに新鮮な喜びを見出>す。
ふたりは外人墓地への方角を間違え、<そうして私たちの上って来たやや険しい道は、一軒の古い大きな風変りな異人屋敷──その一端に六角形の望楼のようなものが唐突な感じでくっついている、>屋敷のところで行き詰まりなった。
<夕方、私たちは下町のユウハイムという古びた独乙菓子屋の、奥まった、大きなストーブに体を温めながら、ほっと一息吐いていた。><やがて若い独乙人夫婦は、めいめい大きな包みをかかえながら、この店を出て行った。JUCHHEIMと金箔で横文字の描いてある硝子戸を押しあけて、五六段ある石段を下りていきながら、男がさあと蝙蝠傘を開くのが見えた。> そして静かに霧のような雨になった。
・その夜の12時頃、再び、ホテル・エソワイアンに戻る。プルウストを出鱈目に読む。しかし、その箇所は“私”の今の心境と全くだぶる。旅先の宿の部屋の様子さえ……。
翌朝、扁桃腺をすっかりやられる。
・ホテル・エソワイアンに4日ばかり泊まり、須磨へ宿を変えた。そして扁桃腺をこじらせて東京に帰り、ホテル・エソワイアンで読んだハイネの詩の意味を知る。
<ハイネの晩年の、彼の愛していた友人たちからひどい仕打ちをされ、心臓の破れるような思いをしていた頃の、ひどく絶望的な詩であることを知って、私は愕然とした。><それが解らないなりにそのとき私の気持ちからあまりに懸け離れているもののように私に思いなされたところのその詩は、実はそのときの私自身の気持ちさながらであったのだ。>
3.『旅の絵』の舞台の歴史等
・1868年(M1)から1970年(M3)かけて競売された神戸外国人居留地は、ようやく商業用地として、形が整い、商館が立ちならび、街の形成も進んでいった。また居留地に働く外国人たちの住宅街が北野町の異人館街である。そして、職と住を結ぶ通勤路がトアロードだ。その通りに面して、聖公教会(オール・セント・チャーチ=神戸税務署跡。(株)平凡社刊『神戸ものがたり』陳舜臣著によると、<この教会も戦災で焼失したが、西洋のお城を思わせる古風で堂々とした木造の建物だった。>という。)、花屋、骨董店、婦人洋服店、ネクタイ屋などもあった。時代が下り、『旅の絵』の舞台となった頃には、居留地居留地42番(現在の大丸神戸店)の西の<今では魚屋や八百屋ばかりになった狭苦しい南京町>やまたトアロードに沿った東西(現在のトアイースト、トアウェスト)に華僑の街が形成されていった。
なお、東亜ホテル(現在の神戸外国倶楽部)はトアロードの<爪先上がりに上がった>突き当たりにあった。
・海岸通は居留地の南端で海沿いの道だ。京町線の南端にある京橋の北詰めは海の水際線にほぼ等しい。『旅の絵』では<海岸通のヴェルネ・クラブに行った。しゃれた仏蘭西料理店だ。>と出てくる。そして<私たちはすぐ近くの波止場の方へ足を向けた。あいにく曇っていていかにも寒い。海の色はなんだかどす黝くさえあった。>の波止場はメリケン波止場のようだ。(メリケン波止場=American pier)
・『旅の絵』の主要舞台である、中山手通り(現在の山手幹線)沿いのホテル・エソワイアン(HOTEL ESSOYAN)は「月刊神戸っ子」竹中郁(小説ではT君)のエッセイ『堀辰雄の記念地』によれば、生田神社の北裏に接するレストラン「ふじい」(現存しない=空き地か?)のところにあったという。神戸新聞総合出版センター刊『名作を歩く』神戸新聞文化部編によれば、竹中郁も「全然雰囲気が残っていませんね。当時の建物なんて全部ないでしょう。堀君の宿は木造の汚いホテルでした。裏に生田さんが見えていたのだけ覚えています」と語っている。野元も現地へ行ってみたが生田の森のみどりだけが今も昔も変わらないだけであった。そしてなぜかとても悲しくなった。阪神・淡路大震災で全壊したアパート跡地だという空き地の向こうに見えたみどりが堀辰雄の気持ちとも重なってものあわれと哀しみを感じた。
・『旅の絵』では“私”とT君は外国人墓地へ行こうとする。現在、神戸における外国人墓地は、六甲山の深い緑と静寂の中にある再度山の再度公園にある。神戸の外国人墓地の歴史は兵庫開港の1年前、1867年(慶応3年)の『兵庫港並びに大阪に於て外国人居留地を定むる取極』に始まった。早くも1967年(慶応3年)神戸では、旧生田川(現在のフラワーロード)河口左岸の小野浜(=小野浜墓地=現在の創価学会関西国際センター)に埋葬が行われた。その後、春日野(現在の春日野墓地の東、労災病院あたり)にも墓地が設けられた。
『旅の絵』でふたりが探して歩いたのは、<T君は、いつの間にやら、私たちの目指している外人墓地への方角を間違えてしまっているらしかった。その挙句漸っと彼は、私たちが飛んでもない見当ちがいな、ある丘の頂に登ってしまったことを、気まり悪そうに私に白状した。>という記述から、春日野墓地を目指していたように思える。
1961年(S36)、小野浜、春日野両墓地は再度公園内に移転統合されて今日に至っている。(非公開)現在、再度の墓地にはやく2650柱が眠っている。
堺事件の仏蘭西兵11人の墓ほか、F.D.モロゾフ氏、シム氏、ハンター氏、マーシャル氏、ウォルシュ氏など神戸を愛し、神戸に貢献した人々の墓もある。
なお、新田次郎の絶筆『孤愁(サウダーデ)』は1898年(M31)から16年間神戸に住んだ神戸・大阪ポルトガル領事ヴェンセスラオ・ジョゼ・モラリスの物語である。その作品の中で、新田次郎は小野浜墓地でモラリスと堺事件の生き残りの老人、もと土佐藩士と孤愁を生きることを互いに語らせている。
・<小さなトランクひとつ持たない風変わりな旅行者の一種独特な旅愁。──私はさっぱり様子のわからない神戸駅に下りると、東京では見かけたことのない真っ白なタクシイを呼び止め、気軽に運賃をかけ合い、そこからそうしつけている者のように元町通りの方へそれを走らせた。>現在、神戸の中心はどちらかというと、三宮であるが、当時は神戸駅から元町通り辺りが中心で西の湊川・新開地などの繁華街が広がっていた。その中でも元町通りは港に近く、港ともに生きていた。
・<夕方、私たちは下町のユウハイムという古びた独乙菓子屋の、奥まった、大きなストーブに体を温めながら、ほっと一息吐いていた。><やがて若い独乙人夫婦は、めいめい大きな包みをかかえながら、この店を出て行った。JUCHHEIMと金箔で横文字の描いてある硝子戸を押しあけて、五六段ある石段を下りていきながら、男がさあと蝙蝠傘を開くのが見えた。>のユウハイム(JUCHHEIM)は元町大丸前交差点から元町通りを西に向かって左手すぐにある。“下町”という表現が面白い。
・<何ということはなしに世間の空気が息苦しくなったあまりに、その息ぬきにわざとこんな世間から離れたようなホテルを選んで泊まったのであるけれど、このホテルの中のそういう空気は私を一そう窒息させそうにした。私はもっと新鮮な、そして、気持ちのいい空気がほしくなった。私はとうとう須磨の方へ宿を替えることとした。> この須磨の方の宿とは? 須磨区行幸二丁目のテニスコート付きの竹中家である。
4.ハイネ詩集
『旅の絵』でホテル・エソワイアンでの最初の晩、甘美な詩と勝手に解釈していたが、本当はハイネの詩『五月に』の意味は<ハイネの晩年の、彼の愛していた友人たちからひどい仕打ちをされ、心臓の破れるような思いをしていた頃の、ひどく絶望的な詩であることを知って、私は愕然とした。><それが解らないなりにそのとき私の気持ちからあまりに懸け離れているもののように私に思いなされたところのその詩は、実はそのときの私自身の気持ちさながらであったのだ。>
とこの詩が『旅の絵』を書かれる直前の神戸を訪れていたときの堀辰雄の心境とだぶっている。
*別添、角川書店刊『五月に』を参照。
5.テーマ
『旅の絵』のテーマは、何か? この小説は神戸に旅行した題材をよって書かれているが、堀辰雄が神戸旅行に立つときに置かれていた状況は、身体の状態も悪い上に極めて厳しい精神的な危機にあった。
それは冒頭から<……なんだかごたごたした苦しい夢を見たあとで、やっと目がさめた。>と何か重たく暗い塗り込められた思いを読者に投げ出す。この冒頭の一行がこの小説のテーマを解き始めるスタートなのだ。そして今の心の状況はメリケン波止場から見た海や港の情景描写<私たちはそれからマカロニやら何やら食べて、その店を出た。そうして私たちはすぐ近くの波止場の方へ足を向けた。あいにく曇っていていかにも寒い。海の色はなんだかどす黝くさえあった。おまけに私がそいつの出帆に立会いたいと思っていた欧州航路の郵船は、もうこんな年の暮になっては一艘も出帆しないことが分かった。私の失望は甚だしかった。そうしてただ小さい蒸気船だけが石油くさい波を立てながら右往左往しているきりだった。>でさり気なく心理を開示している。
そしてハイネ詩集の巻頭『五月に』の提示がされる。この詩を読者が知っていたら、それ以降の解釈も違ってくるが、これもさり気ないテーマの提示に止めて物語は進む。
一日、神戸見物をした後の真夜中、昼間海岸通の薬屋で買った海豚叢書『プルウスト』を読み、その一節を上げることにより読者にこの小説のテーマ、完全なる無関心者(ストレンジャア)となってしまいわしないか、という恐怖を提示している。愛する人なしで生きなければならないこと、彼自身の死の考えに恐怖し出していること、そんな不安がつきまとい、やがてそれが平気に思えるようになることに恐怖を抱き出す。彼の苦しみは解決されず、さらに深まる。テーマはさらなるテーマを生み、さらに混濁としていく。
堀辰雄はこのテーマを解決することなく、自身が持つ肺結核という不治の病とこの苦悩と常に同居させながら共生して、現実の世界から感性や心理の世界を堀文学の独自な世界として築いて行ったと云えよう。
そしてこの小説を書いているときの心境として、ハイネ詩集の巻頭『五月に』の呪詛が
<実はそのときのの私自身の気持さながらで合ったのだ。>
6.『旅の絵』が書かれた時代背景
・1932年(S7)3月1日、満州国建国。・4月24日、第1回日本ダービー、目黒競馬場で開催さる。・5月15日、5.15事件起こる。犬養毅首相暗殺さる。・7月第10回オリンピック・ロサンゼルス大会開催。水泳日本メダルラッシュ。・12月16日、白木屋デパート全焼。
・1933年(S8)1月30日、ヒトラー首相に歓喜のナチス。・2月24日、日本、国際連盟脱退。・3月4日、ルーズベルト、アメリカ大統領に就任。
7.堀辰雄の原風景
・堀辰雄の原風景は、『向島』『幼年時代』『花を持てる女』の中に鮮明に描かれている。彼は東京府麹町区平河町(現在:千代田区平河町)で生まれ、向島で育った。堀文学の土壌は、この山手と墨田川の畔の下町にある。しかし辰雄は『向島』の中で述べているようにこの下町の変貌があまりにも激しい故に何ら愛着を持っていないと述べている。
『作家の自伝52 堀辰雄』の竹内清巳の解説によれば、堀はエッセイー『小説のことなど』(S9)でモーリアックの小説論と較べつつ、自分の作品が私小説と呼ばれる作品かもしれないが、かれは一度も自分の内なる叫びを全部告白したとは思わなかったと言う。むしろ堀は狭義の私小説は否定し、虚構を重んじられている。
・堀作品の流れ
『風立ちぬ・美しい村』新潮文庫の丸岡明の解説によれば、堀辰雄の文学は処女作『ルウベンスの偽画』(S2)に始まり、『聖家族』(S5)で一つの頂点に示し、『恢復期』(S6)
『燃ゆる頬』(S6)、『麦藁帽子』(S7)、『旅の絵』(S8)、などを経て、『美しい村』の一連作品(序曲・美しい村・夏・暗い道)に達する。そしてさらに『風立ちぬ』(序曲・春・風立ちぬ・冬・死のかげの谷)となり、『大和路・信濃路』へ至る。
・堀辰雄は上条松吉を養父といつ知ったか?
この問は近年急に堀辰雄文学研究のアポリアとして脚光を浴びている。堀と「驢馬」で仲間だった佐多稲子が、堀も上条松吉が実父でないという事実を知っていたはずだ、仲間もそう知って堀と付き合っていた、と言いだしている。実際、堀辰雄の作品にはそう感じられるぶれがある。
・死を見つめる作家
堀辰雄は、彼自身の宿病である肺結核と常に死と向かい合って生きている生活、関東大震災による母の死、師芥川龍之介の自殺、婚約者矢野純子の死などから、常に死を見つめ続けた作家である。『聖家族』の冒頭<死があたかも一つの季節を開いたかのようだった>は死を見つめる姿勢を端的に示している。堀辰雄は大震災による母の死も芥川龍之介の死について何も書いていネいが、これは逆に大きな衝撃であったことを現しているように思えてならない。<死が生涯を通じての文学の課題になったことによっても、十二分に推察出来よう。><文学活動に這入るのと殆ど同時に、健康を害したせいもあって、堀の場合、生が常に死に裏付けられて存在し、風景の描写までが、常に死を背景にして、生き生きと陽に輝くのだった。>
・フランス文学をこよなく摂取した作家
堀辰雄はバルザック、スタンダール、ゾラ、コクトー、プルースト、リルケ、モーリアック、ラディゲなど貪欲なまでにフランス文学の影響が強い。例えば、『不器用な天使』はコクトーの『大股開き』、『風立ちぬ』のリルケのレクイエム、『聖家族』のラディゲ、『美しい村』のプルースト等である。またフランス流の心理小説やロマン小説のミニチュア版とも言われている。
・ロマンを書かねばならぬ
1929年(S4)<八月三十日 我々ハロマンヲ書カネバナラヌ。>と書いている。また「芸術のための芸術について」1930年(S5)にもラディゲの<小説とはロマネスクな心理学だ。>を自己の文学の代弁として引用している。
・伝承・民俗への傾倒
堀辰雄は日本の古い文化の地を紀行して、『大和路・信濃路』などを経て、『作家の自伝52 堀辰雄』の竹内清巳の解説によれば、<堀は、折口信夫=釈迢空宛に、「先生や柳田さんの民俗学研究の根本精神のようなものを、自分の書くものの上にも行かして行きたい」とし、><民俗=伝承は、日本古典に取材した諸作品を含めて晩年の堀文学の志向だった。>
●参考は文献:【堀辰雄全集】筑摩書房刊、【燃ゆる頬・聖家族】新潮文庫、【風立ちぬ・美しい村】新潮文庫、【新潮日本文学アルバム】新潮社刊、【名作を歩く ひょうごの近・現代文学】神戸新聞文化部・神戸新聞総合出版センター刊、【私のびっくり箱】竹中郁著・のじぎく文庫 神戸新聞総合出版センター刊、【日本の作家とキリスト教】久保田暁一著・
朝文社刊【墨東の堀辰雄】谷田昌平著・彌生書房刊、【20世紀全記録】講談社刊、【ハイネ全詩集ム最後の詩集】角川書店、【神戸外国人居留地】堀博・小出石史郎共訳・神戸新聞総合出版センター刊、【神戸ものがたり】陳舜臣著・平凡社刊など)