花四季彩-文学碑を訪ねて
   
  77 西芳寺(京都・苔寺)の大仏次郎文学碑
 大仏次郎『帰郷』「苔寺にて」。内容は祖先の日本人が過去に遺したものを今の若い人がどう思っているのか、問うている。「苔寺」には50年ぶりに行った。完全予約制になって初めてだ。昔はいつでも拝観できた。現在の「苔寺」はやや哀しい状況にあった。
「苔」の手入れにもっと気を遣ってほしい。
 


 
 75 敏馬浦(みぬめのうら)の碑
『摂津風土記』によると、敏馬神社の神はもと能勢郡(のせ)美奴売山(みぬめやま)にあったが、三韓征伐の途中神功皇后がこの地で船を造営したので、この敏馬浦に祀られたという。敏馬の浦は景勝の地で万葉集に多く詠われている。現・敏馬神社の地
  76 後藤比奈夫句碑(追悼)
 ―虹の足とは不確に美しき―比奈夫
句碑は「虹の石」河口龍夫の彫刻作品。周辺設計は野元正。空に描いた句が水盤の水面に映っている逆さ文字の妙だ。またフラワーロードは旧生田川なので水盤は川から湧く清水をイメージしている。石材は能勢黒御影石だ。
 
 
  73 求女塚伝承の地碑
 処女塚伝説は、主としてこの場所より東の、西求女塚、処女塚、東求塚の3塚をいう場合が多い。生田川沿いについては、森鴎外の戯曲「生田川」によるものと思われる。
 74 名和長年終焉ノ地碑碑
 この碑は京都市上京区大宮通一条下ルにある。『太平記』によると、隠岐島を脱出した後醍醐天皇を鳥取船上山に迎え、上洛に従った南朝の忠臣名和長年が足利尊氏軍に敗れて戦死した地だ。


 
 
 71 小野小町歌碑・京都随心院
 小野小町が晩年を過ごしたという邸跡といわれる醍醐の里「小野」の随心院にある歌碑。碑文は<花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせし間に>。碑の石に石色の違いで小野小町の姿が象嵌されていた。
 
 72 井原西鶴句碑京都二条寺町
 この句碑は「西鶴俳諧大句数」巻8に収められている。碑文は<通ひ路は 二条寺町 夕詠(ゆうながめ)風情のある二条河原町を四条河原町の涼み床に向かう粋人たちが駆け抜ける様子を詠っている、と解説には出ていた。
 。


 
 69 海軍営之碑・神戸諏訪山
 神戸海軍操練所は、元治元(1864)年5月、勝海舟によって戸数500戸、土地は幕府領(天領)700石。この名もなき漁村に開設されたとされているが、勝私塾のみで設置のみという説もある。坂本龍馬は塾頭だったというが、これも諸説がある。『竜馬がゆく』4巻で司馬遼太郎は、「神戸海軍塾」 という章で書いている。勝は操練所が長続きしないことを見越して、経緯を石に刻み、操練所廃止時に大庄屋生島四郎にこの碑を埋めるよう依頼。生島家別邸にあったが、現在は海の見える諏訪山金星台にある。
70 建礼門・京都御所
 建礼門は御所で一番格式の高い御門で、天皇皇后、外国の国家元首だけが通ることが出来る。建礼門の名をいただく女院「建礼門院」は、安徳天皇の国母で平清盛の娘徳子がいる。建礼門は内裏の外重を囲む外郭七門のひとつだ。宮門と呼ぶ。この門は春秋の御所特別拝観時のみ間近で観ることが出き、撮影も許可されている。山崎豊子の『華麗なる一族』でも出てくる。したがって、『平家物語』『華麗なる一族』など文学碑的建造物といえよう。なお、幕末の有名な事件の舞台「蛤御門」は大内裏を囲む門で、禁門と言ったので、「蛤御門の変」または「禁門の変」という。 


 
 68  敏馬浦跡碑(人丸歌碑
 敏馬浦は武庫水門など行基上人が整備したという五泊より古く、神戸・西郷川河口近くにあった古代の良港だ。『摂津名所図会』にも出てくるが、右図のように高台にあったようだ。手前が国道43号だが、海の渚はこの高台の下43号あたりにあった。敏馬浦は名勝地あったらしく『万葉集』に9首見える。その一つが碑になっている。<たまもかる 敏馬をすぎて なつぐさの 野島のさきに 舟ちかづきぬ 人麻呂>とある。なお、敏馬神社については、兵庫津の七宮神社と絡んで諸説があり、おもしろい。 
 
 66  移情閣
 移情閣は明石海峡大橋の架橋に伴い、橋のアンカーの海浜広場へ移設された。移情閣は神戸華僑呉錦堂が建てた八角三層の建物で、それぞれの窓から見える景色に心が移ろいゆくことに由来する。呉錦堂は松村梢風『近世名勝負物語―黄金街の覇者』で相場師鈴木久太郎との鐘紡株仕手戦が有名だ。しかし彼は神戸華僑を代表する企業人である。また獅子文六の『バナナ』にも呉錦堂を崇拝する神戸華僑の叔父の勧めで「移情閣」を見学する若き二世華僑「龍馬」とその恋人と従妹が描かれている。
67  伊東静雄文学碑
 天王寺から「チンチン電車」で有名な阪堺上町線に乗り、「松虫駅」下車、南へ。鈴虫通とあべの筋交差点を右折し、松虫塚を過ぎてすぐ。「百千の」の碑文は<百千の草葉もみぢし/野の勁き琴は鳴り出ず/ / 哀しみの/熟れゆくさまは/酸き木の實/甘くかもされて 照るに似たらん//われ秋の太陽に謝す>と読める。戦前は大阪府立住吉中学校、戦後は大阪府立阿倍野高校で教鞭をとり、生涯教職を離れなかった。教職のかたわら詩作に耽ったという。近くの「松虫塚」は、浄土宗弾圧の「建永の法難」に関連する後鳥羽上皇に仕えた女官の塚だ。安楽坊と住連坊を恋した「松虫・鈴虫」の悲恋物語は有名。
   
 64 三好達治車瀬橋碑
  この碑は三田市の武庫川車瀬橋の勾欄に嵌め込まれている。明治39(1906)年から5年間家庭の事情で達司は、祖母の住む三田町妙三寺に預けられた。そのとき、車瀬橋辺りで祖母と蛍狩りをした。その体験をしたのが、この「祖母」だ。
碑文は、<祖母は螢をかきあつめて/桃の実のやうに合わせた掌の中から/沢山な螢をくれるのだ。
><祖母は月光をかきあつめて/桃の実のやうに合わせた掌の中から/沢山な月光をくれるのだ>と読める。この橋界隈の武庫川は、昭和初期まで螢の名所だったという。
 65 大阪・住吉大社反橋
『晶子曼荼羅』佐藤春夫や『反橋』川端康成の作品舞台として有名な「反橋」は明治時代の恋愛の舞台でもあった。北浜の平井旅館で出会った与謝野鉄幹、鳳晶子、山川登美子は、3日後には住吉大社に現れ、鉄幹は同時にふたりを愛し始める。<月光と殆ど同時に白衣の二人もしづしづと現れた。/ 濠のやうな蓮池の上を太鼓橋がかかってゐる。鉄幹は二人を迎へ、さて先づ自分で橋の頂上に立ち、彼女らを渡らせようと手を差延べると、登美子はそれにすがり、晶子は手は執らずに欄干づたひに攀ぢ渡った。>とふたりの性格と運命を映す。
62 マンボウ隧道 西宮
 文学碑ではないが、もっと文学碑的な感じがする。谷崎潤一郎『細雪』に出てくるこの隧道は、妙子と奥畑そして潤一郎は何を思ってくぐったのだろうか。「マンボウ」とはオランダ語の「マンプウ」に由来することが本文に出てくる。落書きや注意看板がセンスがなく何か考えてほしい気がした。
63 葭原橋(あしはらばし) 西宮 
 これも文学碑ではないが、村上春樹のエッセー『ランゲルハンス島の午後』に出て来る橋だ。夙川河口に近い所に架かっている人造石洗い出し仕上げ鉄筋コンクリート造橋だが、原作では石造りのかわいい橋として書かれている。確かに素敵な橋だった。中学生の村上少年は、芦屋市立精道中学校から我が家へ生物の教科書を取りにこの橋を渡った。
60 柿本人麻呂歌碑 明石
 
この碑は明石・天文科学館の後の柿本人麻呂神社にある。碑文は<ともし火の明石大門にいらむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず>と読める。
61 折口信夫(釈迢空)碑 奈良・当麻寺
 この碑は当麻寺中之坊の「香藕園(こうぐうえん)」にある。葛城の二上山とその麓にある当麻寺を舞台にした小説『死者の書』は近代文学史上傑作として評価が高い。碑文は<ねりくやう/すぎてしづまる/寺のには/はたとせまへを/かくしつゝゐし>と読める。

58 『春琴抄』谷崎潤一郎文学碑 大阪・道修町
 この碑は、大阪・薬剤の町「道修町」の薬の神様「少名彦神社」前にある。主人公春琴と佐助の哀しい恋の舞台であり、その秘められた謎をどう説いていくかが焦点だ。碑文は書き出し部分であり、潤一郎の原稿からコピーした直筆だ。
59 阿部知二文学碑 姫路
 この碑は姫路城の北西角の船場川を渡ったところにある。彼の家はここから北へ約5〜6分行った外堀の外、閑静な住宅地「坊主町」にあった。代表作『冬の宿』は戦前のベストセラーだった。碑文は『城』 ―田舎から手紙― の一節だ。空襲で燃えさかる姫路の町。城のみが残った。
56 正岡子規歌碑 愛媛・松山
 この碑は愛媛・松山「道後公園」松山市立子規記念博物館前にある。碑文は<足なへの病ゆとふ伊予の湯に飛びても行かな鷺にあらませば>と読める。ちょうど道後温泉では温泉祭の女御輿がねり騒いでいた。
57 高浜虚子三代歌碑 芦屋・月若公園
 この碑は芦屋川の右岸で月若橋近くの月若公園にある。虚子が主宰し、息子年尾、そしてその娘稲田汀子に引き継がれた「ホトトギス」ゆかりの芦屋だ。芦屋川右岸で河口近くに汀子の家と高浜虚子記念文学館がある。
54 川端康成「以文会友」文学碑 大阪・茨木
 川端康成が通った旧制茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)にある文学碑だ。ノーベル文学賞受賞後の昭和44(1969)年、康成も参列して除幕式が行われた。当初は北西角のグランドの北入口付近にあったが、現在は新制高校正門内にある。碑文「以文会友」は論語の<曾氏 (そうし)曰く、君子は文を以て友に会し、友を以て仁を輔(たす)く>から取られている。
55 京都・上賀茂 北大路魯山人生誕地碑
 宝ヶ池から深泥ヶ池を経て上賀茂神社へ至る天然記念物の「カキツバタ」で有名な太田神社の前の道にある。篆刻家、画家、陶芸家、書道家、料理家、美食家など多岐に渡る、人並みはずれた才能に富む。出生等で悩み、家庭の愛に憧れたが、その晩年は悲しいものがあったといわれている。人間国宝の認定も打診されたが、固辞し、生涯を美の追究にかけた巨星だ。
52 伊勢「布引の滝」歌碑 神戸・布引
 伊勢は36歌仙の一人で平安中期を代表する歌人である。『古今和歌集』では女性最多の22首が掲載されている。定説ではないが、在原業平を主人公としたらしい『伊勢物語』の表題の由来にも擬せられる説もある。歌は達筆すぎてよみにくいが、<たち縫はぬ衣着し人もなきものを なに山姫の衣晒すらむ>と読むらしい。百人一首では<難波潟みじかに芦のふしの間も逢はでこの世をすごしてよとや>が有名である。
53 谷崎潤一郎「打出の家」「富田砕花旧宅」
 文学碑ではないが、文学碑的な場所だ。芦屋市打出にある。門横の袖塀に砕花の歌のレリーフがはめ込まれている。<細雪源氏の君のかかわりをわが庭に遺す擬春日灯籠>ここは谷崎が晴れて松子と新婚生活を過ごした「打出の家」。『猫と庄造と二人のをんな』はここで書かれ、
『新訳源氏物語』もここで書き始められたという。谷崎を偲んで献灯された春日灯籠や松がある。
砕花と登山家藤木九三との関係も分かる。
50 吉田兼好『徒然草』文学碑
 吉田兼好『徒然草』は、清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とともに日本三大随筆といわれる。彼は京都・双ヶ丘に隠棲し、『徒然草』を書いた。最後は伊賀の国見山で亡くなられる。この碑は大阪・阿倍野丸山にある。碑文に拠れば、この地は彼の家僕・命婦丸の郷土「丸山」に隠棲、清貧自適の生活を送ったとしてこの地に碑を建立したという。
51 谷崎潤一郎『細雪』文学碑
 阪急「芦屋川駅」北側(山側)から2,3分の芦屋川沿いにある。谷崎が好きで京都・法然院にある墓にも植えられている紅しだれが満開だった。題字の筆蹟は三番目の妻松子である。『細雪』の主人公貞の助の家は、芦屋川から西へ7、8丁、省線(現JR線)から南へ0.5丁にあったという設定になっているが、昭和13年当時は田圃の中で、架空の場所である。
48 三島由紀夫「清明」文学碑
 『豊穣の海』は三島の遺作だ。彼はドナルド・キーン氏と奈良・大~神社に三日間参籠し、ご神体のやま「三輪山」にも登り、降りて来て書いたのは、彼の心を写した清明であったという。
49 谷崎潤一郎『蘆刈』文学碑
 『蘆刈』は大山崎から橋本への淀川中州を舞台とする。作者らしい主人公の男が石清水八幡宮のある男山を眺めながら、永遠の憧れと奉仕と語りかける。そしてこの碑は淀川の蘆群れを見下ろす石清水八幡宮の展望台にある。碑文は谷崎の直筆という。

47 川端康成文学碑(茨木市立川端康成文学館)と宿久庄の古跡
 川端康成は大阪天神橋「大阪天満宮」界隈で生まれ、幼くして父母と死別し、大阪府三島郡大字宿久庄にて祖父母に育てられ、名門大阪府立茨木中学へ進学した。宿久庄の旧跡が上の右の写真だ。家屋は建て替えられているが、庭は当時の面影を残している。文学館前の碑文は随筆「茨木市で」より引用されている
45与謝野晶子生家の碑 大阪・堺
 晶子は堺の菓子の老舗「駿河屋」の娘として生まれ、この町に育った。碑は彼女の生家跡に建っている。当時の面影はまったくないが、ツバ広の帽子がよく似合った晶子像を思い浮かべた。碑文は<海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女となりし 父母の家>と読める。
46待賢門院堀河の歌碑碑 京都・法金剛院
 堀河は法金剛院中興の祖待賢門院の局だった。小説的には西行と待賢門院璋子との恋を仲立ちしたとか? 待賢門院璋子の歌碑があって然るべきところなのに、今のところ待賢門院の歌も書もないという。碑文は小倉百人一首で著名な<長からん 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそおもへ>とある。
43.司馬遼太郎『街道をゆく』文学碑
 稚内観光で時間があったので、道北最大の湖「クッチャロ湖」まで行ってみた。鴨や白鳥など渡り鳥は渡りを始める間際だというが、のんびり湖畔に群れていた。この碑はその文藝の森にあった。シラカンバの林はかなりいい雰囲気だったが、碑は等間隔で形も同じで墓石のイメージであまりセンスがいいとは言いがたい。司馬遼太郎は1992.1.6の厳寒にここへ来たらしい。
44.与謝野晶子『源氏物語』歌碑 京都・宇治
 晶子は幼いときから古典文学特に「源氏物語」に憧れていた。1924年晶子夫妻は宇治を訪れている。1938年晶子は61歳のとき、『新新訳源氏物語』を完成し、それだけでなく、54首の詠歌で構成した『源氏物語礼賛』を創作し、流麗典雅な筆蹟を残している。この碑はそのうち「宇治十帖」の詠歌を晶子自身の筆蹟で刻んだものだ。場所は「総角」古蹟に近い。
41京都島原の碑(太田垣蓮月歌碑)
 これは文学碑ではないが、文学の舞台としてよく出てくる新撰組屯所のあった壬生に近い遊郭「島原」の碑だ。島原は朱雀野(しゅしゃかの)にあった公許の花街だった。今は無形の「島原太夫」の花魁道中や有形の「島原大門」「角屋」「輪違屋  (わちがいや)」ぐらいが残る普通の町といえる。水上勉の『五番町夕霧楼』の遊郭 「五番町」はこの島原に冥加金を支払って営業していた期限付きの遊郭だったが、後に独立した。大門には何代目かの見返りの柳もある。<嶋原のでぐちのやなぎをみて なつかしきやなぎのまゆの春風に なびくほかげやさとの夕ぐれ  蓮月尼>
42京都霊泉連歌講碑 京都・山崎
 足利義尚に仕えた支那範重(しなのりしげ)が世をはかなんで隠棲したのが、ここ山崎の地であった。彼は山崎宗鑑と名乗り、連歌会の指導や冷泉庵での講など主催や『犬筑波集』を編んだ。碑文はとても判読できないが、 <うつききて ねぶとに鳴や 郭公(ホトトギス)>と読むらしい。
 それよりもこの看板の後方に見えるレストランは周辺で採れる自然野菜などを提供してくれる。シチューを昼食で食べてみたが、結構、いけた。この後、サントリーの山崎蒸留所へいけば、12年を超えたモルトウイスキーの試飲が出来る。
39.山本周五郎『須磨寺附近』文学碑
神戸・須磨のあたりは万葉集や源氏物語の時代から多くの文学作品の舞台となってきた。源平の一ノ谷の戦いで有名な須磨寺に山本周五郎の初期作品『須磨寺附近』の文学碑がある。碑文は、
「須磨は秋であった。              ここが須磨寺だと康子は云った。池の水には白鳥が群を……」で始まる
40.正岡子規句碑 法隆寺
 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
信貴山温泉の帰りに一人で近くの法隆寺へ行った。正岡子規の有名な句碑「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を久しぶりで見た。近代写生句の創始者子規の客観写生句、その姿勢が鮮やかに表現された作品だと思う。この句碑は法隆寺正面に向かって右側の鏡池の畔にある。写真はそばの手水越しに撮った。
37.陳舜臣文学碑 須磨寺
七言絶句の漢詩二首の碑だ。須磨寺の竜華橋の畔で平家をしのび、源平の興亡はこの一戦にあり、青葉の笛が清らかに聞こえる、と詠う。華僑商館の家族として須磨寺の公園で運動会をし、読売新聞に空海の在唐期を描いた『曼荼羅の人』を連載して、真言宗の須磨寺と縁が深い。 
38.三木露風歌碑 龍野 
先日、久しぶりの秋晴れにTVでやっていた「三木露風」の赤とんぼ歌曲碑を見に龍野へ行った。赤とんぼの歌は露風が二十三歳の時の作品だ。彼はこの詩を北海道のトラピストの丘で望郷と母を思って創ったのではないかと言われている。明治四十四年『廃園』で中央詩壇に出、『邪宗門』の北原白秋と並び称された龍野出身の象徴詩人だ。 
35.松尾芭蕉句碑 須磨浦公園
 蝸牛(かたつむり) 角
       ふりむけよ 須磨明石
 この地は昔、播磨と摂津の国境であった。ここより少し西へ行くと鉢伏山を下る谷川である「境川」に至る。遠く淡路島を望む。陽に煌めく海は一度眺めると、病みつきとなる。
36.与謝蕪村句碑 須磨浦公園
 
春の海 終日 のたりのたりかな
 須磨浦公園から眺められる海はまさにこの句の海だ。そののどかさは他ではなかなか見れないと思う。
 この碑のある高台から見える海は一日眺めていても飽きない。
33.万葉歌碑 高円山白毫寺
 高円(たかまど)の野邊の秋萩
        いたずらに
     咲きか散るらむ見る人無しに
この歌碑はこの寺が天智天皇の第七皇子志貴皇子の山荘跡に建てられたといういわれにより建立されたらしい。碑文は万葉仮名で書かれている。これにも今はやりの裏読みがあるのだろうか? 志貴皇子については異説あり。
高円之 野邊秋芽子 徒 開香将散 見人無尓
34.高浜虚子句碑 調布市深大寺
 
遠山に日当たりたる枯野かな
 この句碑は武蔵野面影が残る深大寺境内にあった。虚子はこの句を明治32年10月25日の虚子庵例会で詠んだという。当時26歳であった。
 門前前で深大寺そばとみたらしだんごを食べた。そばはもちろん美味かったが、ごまだれのみたらしはいける。お奨めだ。
31北原白秋歌碑 奈良唐招提寺
 
水楢の柔(やは)き嫩葉(わかば)は
    み眼にして花よりなほや白う匂はむ
 今、平成の大修理をしている唐招提寺金堂の片隅に忘れ去れたようにあった。私は忘れ去られようとしているような、そんな風情に惹かれる。銅板の燻された輝きも気に入った。静かすぎる静寂に静寂の音を聞くのも楽しい。
 12年もかけて日本に来日した鑑真和上がその辛苦ゆえに盲目となった由来も読み込んだ歌であろうか? 水楢はブナ科。葉に葉柄がないのですぐ分かる。
32.本郷館 東京・本郷 (05.3.5撮影)
 
2005年3月19日(土)朝日新聞朝刊「be on Saturday」の”ことばの旅人”で宇野千代さんを特集していた。千代さんは尾崎士郎と出会ったその日から、東京・本郷のホテルで生活を始める。このあたりは徳田秋声、石川啄木、北原白秋、夏目漱石、森鴎外、江戸川乱歩、宮沢賢治など著名な文人ゆかりの地だ。その意味で本郷館は文学碑ではないが、1905年(明治38年)に建てられた木造3階建ての下宿屋は当時の佇まいを今に伝える文学碑といえよう。
29.竹下夢二記念碑 夢二生家隣接公園
山河は人を育てる”と夢二郷土美術館のパンフレットに記されていたが、故郷の山河は夢二芸術の原風景だと思う。大正ロマンを彩る夢二特有の美人画はそこはかとなく私の心をくすぐる。意識しないでも何かを伝えてくる。この碑は生家から小径と小川を隔てた、東京世田谷の復元したアトリエ『少年山荘』のある公園の一角にある。
<泣く時はよき 母ありき 遊ぶ時は よき姉ありき 七つの ころ よ 夢>と読める。この土地は16歳までここで生きた夢二の感性形成に大きな意味を持つ故郷だ。
30.織田作之助文学碑 大阪法善寺横町・正弁丹吾亭前
 旧中座の火災で類焼し、往時のまま復元された正弁丹吾亭前の織田作之助文学碑だ。作之助は随筆『大阪発見』で法善寺横町界隈を大阪らしい風情だと書いている。碑文は
「行き暮れてここが思案の善哉かな」と読める。この碑の向かいに歌謡曲『月の法善寺』の碑もあり、『夫婦善哉』に書かれたぜんざい屋もすぐ近くの水かけ不動横にある。
 火災のあと、地元の大阪人は横町の面影を懐かしみ、復元に奔走した。今はその面影を取り戻した。
27花月落語席跡記念碑 大阪法善寺横丁
 ”懐かしおます この横丁で おもろい噺 
  五十銭 此処は花月の 落語席あと” 
 と読める。これは文学碑ではないが、織田作之助や三田純市などがそぞろ歩き、上方落語に笑う庶民の顔が浮かぶ。この横丁は大阪を象徴しているような気がする。それにしても中座の火災から横丁を復興した地元の人や大阪人のエネルギーに敬意を表したい。
28谷崎潤一郎『蓼食う虫』碑 
           大阪国立文楽劇場前
『蓼食う虫』の一節に弁天座で文楽を見る場面がある。それにちなんで碑は文楽劇場近くににあったが、近松門左衛門の道行になぞられて碑が配置されているとかで、碑文面は車道や歩道に直角で碑文を読んだり、写真を撮るためには考えられいなかった。
25宵待草歌碑 岡山旭川畔
”待てど暮らせど 来ぬ人を……” 私の好きな歌のひとつだ。この写真は岡山だが、この歌碑の横に「夢二郷土美術館」小島光信館長の後日譚があった。それによると、夢二が『宵待草』を詠んだ地はここではなく千葉県海鹿島が定説であるとしている。
26.『櫻守』水上勉文学碑 神戸・岡本南公園
 蕾も大きくなり始めた笹部さくらゆかりの岡本南公園へ行ってみた。ここは小説『櫻守』の竹部庸太郎のモデル”笹部新太郎”の屋敷跡だ。笹部氏は不可能と言われた岐阜県の御母衣ダム建設で水没する運命にあった樹齢450年の「荘川桜」の移植に成功した。碑は小説の移植場面を掲げている。
23谷崎潤一郎『細雪』碑 神戸・住吉川畔
”この碑はJRより上流の右岸、甲南小学校の北東隅に鬼門除けのようにある。左の黒い擁壁が堤防だ。『細雪』から引用する。<住吉川の氾濫の状況がやや伝はって来て、国道の田中から以西は全部大河のやうになって濁流が渦巻いてゐること、従って野寄、横屋、青木等がもっとも悲惨であるらしいこと、国道以南は甲南市場も、ゴルフ場もなくなって、直ちに海につながっていること……> 住吉川は桜が満開なのに、愛でる人もなく静かだった。
24.松尾芭蕉句碑 京都・金福寺
 宮本武蔵の決闘で名高い一乗寺下り松から少し西に行ったところにある寺だ。江戸時代に臨済宗の寺として再興した鉄舟和尚と親交のあった芭蕉がよくここを訪れたという。のちに与謝蕪村の墓もある。彼は寂れた芭蕉庵を再興した。碑の句は「うさ我をさびしがらせよかんこ鳥」とある。小さな寺だが、庵周辺と見下ろせる京都市内の景観も気に入った。独り来て物思いにふけるのもいい。人に慣れた三毛猫が相手してくれる。
21.在原業平朝臣歌碑 芦屋・芦屋川畔
”この碑はJR芦屋駅から線路に沿って西へしばらく行くと、JRが天井川である芦屋川の下を通る。その芦屋川沿いにある。歌物語『伊勢物語』の業平碑だ。碑文は<世の中にたえて桜がなかりせば春の心はのどけからまし>と読める。この近くに業平の別荘があったというが、今は定かでない。芦屋川左岸の業平町あたりか?
22.法善寺横丁 大阪
 これは文学碑ではないが、法善寺横丁界隈はは織田作之助の『夫婦善哉』のみならず、大阪文学にとって発祥地的意義があると思う。多くの作家の心に深く刻まれた原風景になっているのではないか。文学だけでなく文楽、浄瑠璃、上方落語、上方漫才、新喜劇など法善寺界隈は大阪人にとって心の源泉なのだ。藤原寛美の字が間違っているのも愛嬌だと思う。
19近松門左衛門の墓 尼崎・廣済寺
 これは文学碑ではないが、尼崎・廣済寺にある墓だ。大阪谷町8丁目の妙法寺にも同じ恰好をした墓石の墓がある。墓の構えは尼崎塚口の方が立派で、廣済寺復興などの伝説から本物っぽいが、大阪の墓は本通りからちょうと入った思いがけない一角にあるのが人の気を引く。あの近世を風靡した歌舞伎、浄瑠璃、文楽の大劇作家にはその意外性にリアリティがある。
20椎名鱗三碑 姫路・書写山円教寺
 これは彼が書写山麓で生まれたことを顕彰するため昭和55年に建立された文学碑だ。碑文は「言葉のいのちは愛である」、書は親交のあった岡本太郎。言葉は踊り跳ねていた。なかなか味のある字だと思う。椎名鱗三は東坂参道の登り口女人堂附近に棲んでいたという。姫路文学館の資料によると、少年時代は暗い日々であったようでふるさとを捨てた意識に苛まれたようだ。
17.若山牧水歌碑 伊丹・白雪酒造前
 牧水は旅や酒を愛した浪漫派の歌人だ。碑文は、<てにとらば消なむしら雪はしけやしこの白雪はわがこころ焼く 牧水>だ。「はしけやし」は「いとおしい」の意味だという。また銘酒の「白雪」もこの歌には詠み込まれている。近松も好んだ「白雪」は江戸時代から有名ブランドだった。
18.椎名麟三碑 神戸・長田区山陽電車本社前
 椎名麟三は姫路書写山麓の出身で作家になる前、山陽電車の車掌をしていた。その様子は彼の代表作『美しい女』に反映されている。この文学碑は在籍を記念したもので、碑文は、<考えて見れば 人間の自由が僕の一生の課題であるらしい>『自由の彼方』より と読める。
15.松尾芭蕉句碑 明石・柿本神社
 この句がここに初めて建立されたのは明和5(1768)年のことらしい。その後二回倒壊し、現在は三代目という。碑文は「蛸壺やはかなき夢を夏の月」らしいが、風化してとても読めない。かろじて横の説明板から字影をしのぶ。
16.織田作之助文学碑 大阪・夕陽丘・口縄坂
 この界隈は彼が生まれ育った原風景だ。碑のある隣町、上汐町4丁目で生まれた。源聖寺坂や口縄坂などと書くと涙が出そうになるくらい懐かしく思えると書いている。碑文は<白い風が走っていた。>と『木の都』の終わりの一節だ。
13.夕陽丘女学校跡碑 大阪・口縄坂
 
織田作之助が心をときめかせて通った坂道にあった女学校跡の碑。まさに文学碑だ。
「口縄(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるように、  口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。 蛇坂といってしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情  緒もおかし味もうかがわれ、この名ゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、 しかし少年の頃の私は口縄坂といふ名称のもつ趣には注意が向かず、むしろその坂  を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡 い青春の想ひが傾いた。夕陽丘とは古くからある名であらう。昔この高台からはる かに西を望めば、浪華の海に夕陽の落ちるのが眺められたのであらう。藤原家隆郷  であらうか「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこ の高台で歌つた頃には、もう夕陽丘の名は約束されていたかと思はれる。しかし、  再び少年の頃の私は、そのやうな故事来歴は与り知らず、ただ口縄坂の中腹に夕陽 丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけ もなく坂の上に佇んでゐた私の顔が、坂を上って来る制服のひとをみて、夕陽を浴 びたやうにぱつと赧くなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。     織田作之助 「木の都」より
14.川端康成『古都』文学碑
 この文学碑は北山杉の美林が続く京都清滝から小浜に抜ける、周山街道沿いの北山杉資料館。川端康成の代表作の一つであるが、「古都抄」碑はひっそりと建っていた。前に来たことがあるが、観光客の少ない夏の初めの来訪も趣があった。碑文は達筆すぎて読めなかった。資料館のパンフレットによると、
杉山の木末が、雨にざわめき、稲妻のたびに、そのほのおは、地上までひらめき、二人の娘のまわりの杉の幹まで照らした。美しく真っ直ぐな幹のむれも、つかのま、不気味である。と思うまもなく、雷鳴である。   康成  
 もうすぐ祇園祭だ。『古都』の、この山里で生まれた双子ヒロインが、<「神さまのお引き逢わせどす>とようやく姉妹であることを確かめ合ったのは、この祇園祭の夜だった。
11.三木露風『ふるさとの』詩碑龍野公園聚遠亭池畔
 この詩碑は三木露風十九歳のときの作品だ。明治40年「文庫」に、明治42年「廃園」に掲載された。ふるさとを出て、二度と故郷に帰って来なかった露風の、懐かしい龍野の風土と青春が抒情歌として詠われている。碑の背後の朽ちかけた築地がいい。碑文は
    ふるさとの 小野の木立に
    笛の音の うるむ月夜や
    少女子は 熱き心に
    そをば聞き 涙ながしき
    十年経ぬ おなじ心に
    君泣くや 母となりても
12.矢野勘治『玉杯碑』 龍野・龍野公園
 この歌碑は龍野出身の矢野寛治の「頌徳碑」を挟んで右に「春爛漫の花の色」、左に「嗚呼玉杯に花うけて」だ。矢野勘治はこの二つの一高寮歌を作詞した。<嗚呼玉杯に花うけて/緑酒に月の影やどし/治安の夢に耽りたる/栄華の巷低く見て/向ヶ岡にそそりたつ/五寮の健児意気高し>
 中央の「頌徳碑」は一高の同級生吉田茂の書だ。当時寮歌はこの二曲のほか三高の「逍遥の歌」 北大予科の「都ぞ弥生」など多数あり、青春歌として一世を風靡した。私も受験の頃、毎日志望校の寮歌を歌って頑張ったのが懐かしい。
9.万葉歌碑(詠み人元興寺僧) 奈良・元興寺
 
歌碑文は
白珠は/人に知らえず/知らずともよし/知らずと/吾れし知れらば/知らずともよし(万葉集61018)
簡単に意訳すると、あの人の価値は人に分からなくてもいい。私さえ分かっていればいいのだ。他の人は知らなくていいよ、という意味でしょうか。それよりも私が気に入ったのは、黒御影の磨鏡面に映った空とカリンの樹でした。
10.垂水万葉歌碑 神戸・平磯緑地
 石走る 垂水の上の さわらびの 
   もえいづる 春に なりにけるかも
           (志貴皇子 巻1-418)
 ここの歌碑群は神戸市垂水区ゆかりの万葉集の秀歌六つを、明石の門を望む平磯緑地に配置したもので、海峡を行き交う船を望む展望台もある。西の外れの「恋人岬」もロマンあふれるランドスケープを楽しむことができる。
7.一葉樋口夏子碑 東京・一葉終焉の地
 
碑文は<花ははやく咲て散がた-略->で始まる日記からの一文だ。筆跡は一葉写し。一葉は24年の短い生涯をこの地で終えた。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など名作はここで生まれた。近くに師であり、一葉の憧れの人「半井桃水(なからいとうすい)」も住んでいた。
8.火垂るの墓文学碑 神戸・石屋川
 
この碑は小説の舞台のひとつ石屋川沿いにある。この小説を有名にした宮崎駿のアニメ映画の一場面が陶板ではめ込まれている。ここは主人兄妹が空襲から逃れ、はぐれた母を捜す場面だ。家族の迷いしるべは石屋川の三本松だった。幸運の建物御影公会堂もここから見える。
5.高山樗牛住居跡碑 鎌倉・長谷寺
 
東京博文館発行の総合雑誌『太陽』で日本主義を主唱した明治の評論家・小説家として著名だ。『平家物語』に題材をとった『滝口入道』がある。
6.蕪村・百地碑 京都・金福寺
 
明治15(1883)年、蕪村の百回忌に際して寺村百地の孫が建てた句碑だ。碑文は、
 花守は野守に劣る今日の月   蕪村
 西と見て日は入りにけり春の海 百地
3.芭蕉句碑 大津・三井寺
 
三井寺山内円満院前にある句碑だ。碑文は
  三井寺の 門たたかばや けふの月 
 である。刻した文字はなかなか味がある。
4.五十嵐播水碑 姫路・書写山円教寺
 
播水は医師で俳人。姫路生まれで須磨寺近くに住んでいた。「九年母」を山本梅史より継承主宰した。景を視覚的によく捉えた。碑文は<曼珠沙華幼き記憶みな持てり>
  
2.一茶句碑 大阪・平野郷・大念仏寺
 
平野は堺のように環濠に守られた自治都市として栄えた町だ。九年前のガイドブックに「平野町ぐるみ博物館」とあったので行ってみた。レトロな施設もあっておもしろかった。特に全興寺は地獄堂などいろいろな工夫がしてあって飽きない。その中で一際大きな寺、大念仏寺で一茶の句碑を見つけた。「はる風や順礼ともがねり供養」の墨蹟は一茶直筆写しという。
  
 
 
 
 
 
1.与謝蕪村生誕地碑 大阪・毛馬閘門
 
春風や 堤長うし 家遠し
 
この句碑は大川が淀川に合流するところ、毛馬閘門横にある。蕪村はこの辺で生まれ育った。そのことを詠んだ句もある。
「春風馬堤曲則余が故園也」と。
 この辺一帯は菜の花畑だったということから、
「菜の花や月は東に日は西に」という有名な句を詠んだ地は蕪村の故郷と神戸の摩耶山麓との二説がある。