■知られざる神戸
 ・平清盛墓所考

清盛は養和元(1181)年逝去したが、遺骸は京都の愛宕(おたぎ)六道(ろくどう)(ちん)皇寺(のうじ)(正確には当時、平家の本拠地六波羅近くには愛宕念仏寺があり、後に鴨川の氾濫で流失荒廃したが、その一部が(あだし)()の奥(化野念仏寺から約600m)の嵯峨鳥居本に遷り、千二百羅漢で有名な愛宕念仏寺(正式名は愛宕寺)となった。六波羅近くに残ったのが、小野篁(おののたかむら)と地獄の入り口で有名な六道珍皇寺だ。)で荼毘にふされ、清盛の腹心で能福寺住職円実法眼により経の島に納められたというが、その墓所は定かでない。しかし、高橋昌明氏の『平清盛 福原の夢』による、『吾妻鏡』に出てくる播磨国

☜和田社・和田御嵜
 

山田(現・垂水区西舞子の山田川周辺)の法華堂説にとても魅力を感じる。海への限りない情熱を持つ清盛の墓所としてふさわしいからだ。山田は平家領の荘園で清盛の別邸があった所だ。『高倉院厳島御幸記』には高倉上皇が厳島へ行く途中立ち寄った記録や庭園の記述もある。その記述から庭園は淡路島を望む明石海峡を借景にしていると思われる。海を借景できる高台か、兵庫津の「和田神社」のように山田川河口辺りで船泊と一体となった邸宅庭園も想定できる。現に『高倉院厳島御幸記』では高倉院一行が河尻(五泊の一つ)の寺江に藤原邦綱の山荘があり、<御舟ながらにさしいれて>とあるのであながちなきにしもあらずと思う。この地は「きつね塚古墳」や「五色塚古墳」など古代から美しい海の見える墳墓の地に近い。清盛は神戸の何処かで今も静かに眠っている。知りたい気持ちあるが、そっと永遠の眠りを妨げないように願う気持ちも強い。

【注】『高倉院厳島御幸記』(厳島神社参詣の高倉院に随行した土御門内(つちみかどない)大臣源通(みちちか)の紀行文)「須磨・明石・高砂の湊」から播磨国山田の部分を引用する。

<播磨の國山田(播磨国明石郡山田)といふところに昼の御まうけあり。心ことにつくりたり。庭には黑き白きいしにて、(あられ)の方にいしだゝみにし、松をふき、さまざまのかざりどもをぞしわたしたる。御まうけ、海のいろくづをつくし、山の()()を拾ひていと()める。とばかりありてぞ出でさせ給ふ。風少しあらだちて、波の音も気あしくきこゆる。うかべる舟どもすこし騷ぎあひたり。明石の浦などすぐるにも、なにがしの昔しほたれけむも思ひ出でらる。

*野元注:・播磨の國山田(播磨国明石郡山田)→現神戸市垂水区山田(西舞子)の福田川沿いの福田村 

・御まうけ →歓迎の接待 ・あられのかた →織物の霰地のような模様(形)に

・海のいろくづ(海の(いろくず))→海の魚 ・なにがしの昔 →源氏物語の「須磨明石」の内容