■敏馬の浦考


.敏馬の浦

 敏馬(みぬめ)の浦(敏馬の泊)は、武庫の水門の次に泊地として栄えた。『日本書記』には見えないが、万葉集には多く登場する。表記としては「敏馬」「美奴売(みぬめ)」「見宿女」「汝売」「三犬女」などがある。延喜式の表記は、八田部郡「汝売神社」だ。
八千(やち)(ほこ)の 神の御世より 百船の ()つる泊 ()島国(しまくに) 百船人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦浪騒ぎ 夕浪に 玉藻は来寄る 白沙(しらまなご) 清き濱邊は 往き還り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ (しの)びけらしき 百世()て 思ばえ行かむ 清き白濱 (『万葉集』巻61065
(反歌二首)
まそ鏡 敏馬の浦は 百船の 過ぎて往くべき 濱ならなくに (『万葉集』巻6-166
濱清み 浦うつくしみ 神代より 千船の()つる 大和田の濱 (『万葉集』巻6-167
【大意】

 八千鉾の神(大国主命)の御世より 多くの船が停泊する八島国(日本)で百船が泊まれる敏馬の浦は、朝風に潮が騒ぎ、夕波に玉藻が波に寄り添いて漂う。白砂の清い浜辺は、往還して見飽きることはない。このことは私だけでなく多くの人が語り継いで、その美しさを讃えてきた。これからも称えられるだろう。この清き浜辺は。
(反歌二首)
・澄み切った鏡に向かうように美しいものと、どの 船も見とれてしまうほど敏馬の浦は美しい浜辺であるよ。
・清々しい敏馬の浦は、ずっと昔から多くの船が停泊する美しい浜であることよ。
『摂津名所図会』には、敏馬神社は岩屋村にあり、図絵では菟原郡に分類しているが、「延喜式」では前述のように八部郡に「汝売神社」の表記で載せている。岩屋(いわや)大石(おいし)()(どろ)生土(うぶす)()として祀られている。この神はもと能勢郡(のせごおり)(みぬ)馬山(めやま)(美奴売山)にあったが、神功皇后が船を造営したので、この敏馬浦に祀られたという。このことは「摂津風土記」にも書いてある。社頭西の階段横から(せい)(れい)で夏冬に関係なく増減しない霊泉があったとしている。またこの高台は岬のように張り出し、東に入江があったという。 
 延喜14(914)年、平安時代中期の学者三善清行が醍醐天皇に提出した政治意見書「意見封事(いけんふうじ)十二箇条」に、行基上人が、瀬戸内海に「(せつ)(ぱん)五泊(ごはく)<河尻泊(尼崎市神崎町)、大輪田泊、魚住泊(江井ヶ島)、(から)(どまり)(現飾磨港)、室生(むろう)泊(たつの市室津)>築いたとある。五泊の他に敏売(みぬめの)(うら)=脇浜があり、古代から重要な港として位置づけられていた。逆に敏馬の浦は五泊が整備される以前から、敏馬の泊はあった。『延喜式』巻21玄蕃寮(げんばりょう)」の条には<新羅の客人入朝するに際しては、大和片岡社一社、摂津国の広田、生田、長田三社より各五十束、合せて二百束の稲を生田社に送り、そこで神人に酒を作らせて、その酒を敏馬の崎で給う>とあり、新羅使は難波津へ行く先だって敏馬で神酒を給する習慣があったようだ。ただし異国の使いを慰労する意味でなく、「祓い清める」というが、難波津でも同じ儀式があり異論がある。生田神社で醸す神酒は、神功皇后の三韓征伐の勝利を再確認する我が国にとっては美酒であり、新羅使にとっては屈辱の苦い酒ではなかったか、という説である。
 なお、図絵や写真で分かるように、神社の階段下はすぐ海岸(現・国道43号)だった。
 柿本人麻呂の歌  玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎へ 舟近づきぬ
 この歌には「敏馬」の替わりに「処女(おとめ)」とする異歌説もある。これなら「処女塚」を見ながら過ぎてとなる。さて、敏馬神社はどこにあったか? ①敏馬神社付近説 ②旧大輪田の泊説 ➂駒ヶ林説 の3説があるが、現在の敏馬神社辺りとするのが妥当であろう。しかし、敏馬神社は式内社であり、生田神社・長田神社とともに「八部郡三座」といわれた格の高い神社である。ところが現在の敏馬神社の位置は、八部郡ではなく、菟原郡に属するのだ。したがって、地元には敏馬神社を旧大輪田の泊に比定する説も根強い。講師の自由な推論をいえば、兵庫の旧家(しら)(ふじ)家古記録には、摂津国八部郡兵庫津に鎮座する七宮はすなわち延喜式にいう八部郡「汝売神社」だと記されている。また明応2(1493)年の七宮神社蔵の古記録にも八部郡汝売神社とあるので、現在地の敏馬神社は後世、兵庫津から遷宮したものかもしれない。しかしこれは定かではないが、敏馬の浦と敏馬神社は切り離して考えた方が良さそうな気もする。条里制研究で名高い郷土史家落合重信は、生田川流路変移説だ。すなわち古代生田川は八田部群と兎原郡の境川だとし、古代には敏馬神社の東を流れていたというのだが、青谷川が近くにあり、入り江もあったことから地形的に納得できない。
 敏馬の浦を要約すると、武庫の水門以降、西摂の重要な津(港)となり、管理者は津守氏であった。外交使節を畿内で最初の接待を行い、検疫所の役目を果たし、その位置は現在の敏馬神社付近であったことが分かった。 
やがて、この泊も青谷川や都賀川(大石川)から流失した土砂で埋まり、奈良時代中期にその機能を失って史上から消え、泊はさらに西へ移る。それが大輪田の泊すなわち兵庫津へと繋がってゆく。なお、津守氏と住吉大社神官とつながりも興味深い。

 


■敏馬神社

 
■『摂津名所図会』「岩谷邑・敏馬・求塚」


■敏馬浦(海側)から見た敏馬神社(右の森)。
煙突は日輪ゴム会社。(現地、神社掲示板より