■『太平記』と楠木正成

(1)湊川合戦前夜

足利尊氏が建武の新政に不満を寄せる武士に担がれる形で建武21335)年、鎌倉で後醍醐天皇親政に謀反を起こした。しかし、足利軍は楠木正成の策略にかかって油断し破れた。敗走する尊氏は、丹波から播磨を経て兵庫に逃れ、赤松円心と合流し、態勢を立て直した。しかし、尊氏は芦屋の打出浜で楠木正成に、豊島河原(池田・伊丹市境の武庫川)で新田義貞に敗れ、相次ぐ敗戦に自刃も覚悟した。『梅松論』によると、このとき円心は切腹しようとする尊氏に史上有名な進言を行う。一つは、「今兵馬は疲れている、このまま京に上っても巧くいかないと思う。ここは九州まで退却して兵馬を休め、それから上洛してはどうか」一つは、「この戦を帝と侍の戦にせず、帝と上皇の戦にすべく、持明院統の院宣を受けてはどうか」という二つの進言であった。そして円心は尊氏が再び戻ってくるまで、播磨の白旗城を死守して待っていることを誓った。

進言を聞いて一旦、九州まで落ち延びた尊氏は、再び体制を立て直してわずか3ヶ月で九州から水陸の大軍を率いて東上してくる。正成は後醍醐天皇を比叡山へ遷座し、尊氏軍を京都に入れて包囲殲滅する秘策を提案したが、天皇や公家衆に受け入れられず、兵庫で戦えと新田義貞、楠木正成に命じた。また『梅松論』によると、別の席で正成はその前に尊氏の西走に、勝利に酔う後醍醐天皇に徳のない新田義貞を誅伐して武士の心を掴んでいる徳の尊氏と和睦してはという意表を突く奏上している。しかしこれも聞き届けられなかった。このことから楠木正成は、初めから負け戦の死を覚悟した出陣であったという。

▲上図は『摂津名所図会』

(2)湊川合戦

 正成は死を覚悟し、現在の大阪府三島郡島本町の「桜井の宿」で11歳の長男正行(まさつら)を河内へ帰し、不本意な戦いのために約700騎のみで兵庫に向かっている。そして義貞は円心の守る白旗城の包囲を解いて湊川に防衛陣地を作り、足利軍の東上に供えた。この湊川は源平の合戦が行われた湊川の流れとほぼ同じだ。この湊川は石井川と天王谷川が合流して現在の上沢、下沢、永沢、柳原、三川口を南下して須佐の入江に注ぐ。『私本太平記』のため現地取材をした吉川英治は、<跡方なきこそよけれ湊川>と一句詠んだ。さて、正成は再度京都包囲論を展開するも退けられた。正成軍は義貞の本陣の北方の会下山に陣を敷いた。近くの頓田山(三草山)にも楯と幡を並べて、尊氏軍を待った。歴史的大合戦の日は新暦で言えば七月十二日で前日の雨も上がって暑くなりそうだったという。相手の中央軍は赤松円心が率いている播磨勢だ。「遠矢浜」から始まった戦の流れはすぐ決まった。まず義貞軍が尊氏の水軍が生田川河口から上陸して背後から迫ることを恐れて浮き足立った。そして新田軍は生田川河口まで退却した。3万の尊氏軍の中に楠木軍700騎は孤立した。しかも平坦で得意のゲリラ戦もできない。一挙に攻めればあっという間だ。しかし、ただでさえ少数、次第に消耗しつつ73騎となって6時間も戦ったのである。これは謎であるが、尊氏がかつての友正成を活かしたいと思っていたのではないかという説もある。そして正成は湊川の民家に入って自害することにしたという。美しく死ぬことを選んだ最期だった。この場所は伝説では、今の平野浄水池の上楠谷という谷にある小寺といわれているが、そこまでいく体力が正成軍73騎に残っていたか疑わしいといわれている。やはり大倉山下の広厳寺か現在の湊川神社あたりだろうという説が妥当と思われる。