花四季彩-須磨離宮公園周辺考
■須磨離宮公園周辺由来考 野元 正
須磨離宮公園のある「須磨」の地は、万葉集に海士の塩焼きなどが詠まれ、都人に知られていた。そして在原業平 の兄で平安初期の歌人である中納言在原行平が光孝天皇の怒りに触れ、この地に流されたことや、源氏物語で須磨の巻として巻名となったことにより、須磨の地名はさらに多くの都人に知られるようになる。源氏物語の中で主人公光源氏は尚侍の君との密通が明るみに出るにつれて、位階も削られて朝廷における立場は日々に悪化していった。彼は自ら須磨の地へ退く。すなわち、須磨は緑豊かな山と光り輝く海に恵まれた地でありながら、在原行平にとっても光源氏にとっても配流の地であった。そういう意味で当時の都人の眼には、わびしさがつきまとう地として映っていたようだ。
平安後期になると、須磨は源平合戦の場へと変わる。須磨寺、敦盛塚、安徳天皇内裏跡、那須与一の墓など須磨には平家物語などに出てくる源平ゆかりの地が多い。現代においても源平に由来する地名が須磨離宮公園周辺には、『青葉の笛』の青葉町、『源平古戦場の一ノ谷』の一ノ谷町、『須磨寺』の須磨寺町などがある。また源氏物語ゆかりの地名は『若木の桜』から取った桜木町、若木町がある。『若木の桜』とは、幹に腐れが入るなどして枯れたように見える老木から出た新しい枝は若木のように元気で、花も盛んに咲かせていると言う意味だ。
■須磨寺&須磨大池 | ■須磨寺中門 |
さて、在原行平ゆかりの地名はまず、因幡国の国司に赴任するときの歌とする異論もあるが、須磨にも稲葉山があったという伝説に夢を託したい。すなわち小倉百人一首で有名な『立ち別れいなばの山の峰におふるまつとしきかば今かえりこむ』に由来する稲葉町、多井畑村長の娘姉妹・松風、村雨の悲恋伝説の松風町、村雨町、衣掛町がある。
本題の月見山はやはり在原行平伝説に由来する。須磨に配流された在原行平は、この地の月に都で見た名月をだぶらせて、都を思ったことだろう。現在の離宮公園内南側一帯に東須磨月見山の字名が残っている。そして海抜約45mの正門から武庫離宮当時の園路をたどり、狛犬に守られた中門を入ると、海抜約64mの高台に出る。そこに旧武庫離宮時代の花崗岩造の潮見台がある。ここからは瀬戸内海が見渡せたが、近年全面の樹木が生い茂り、展望は少し損なわれている。またその東に休憩所の柱だけが残る月見台もある。在原行平になったつもりで現地に立てば、その意図は十分感じることができる。
須磨離宮公園では毎年、中秋の名月と十六夜に『月見の宴』を催している。この月見台からの名月は格別である。また、園内で売られる駿河屋の月見団子は美味い。菊正宗の振舞酒や須磨離宮公園特製のやまもも酒も最高である。
2.須磨離宮公園の地誌など
現在の須磨離宮公園は本園と分園(植物園)からなる。本園は旧武庫離宮の御殿敷地と、その後背地で六甲山縦走路である通称須磨アルプスと呼ばれる尾根までの御料林の約77.4haである。分園は昭和48年(1973年)に神戸市が用地買収した元神戸銀行頭取の岡崎邸跡地の約5.2haである。
岡崎邸跡地は、六甲山系から伸びる幾筋かの小さな尾根の突端に位置している小高い丘とその麓である。用地買収時における特筆すべきものとしては、現在の東門辺りが正門であった。そして門の左手に『若木荘』と名付けられた大正時代風の木造二階建ての館があった。これは惜しいことに阪神・淡路大震災で倒壊したため、撤去して今はない。現在の東門を入った右手、今の倉庫辺りに車庫があり、珍しいクラシックカーが何台か保存されていた。また左手には、木造で軒下に赤い丸灯が点る戦前の請願巡査派出所があった。大樹の陰で陽の当たらない小屋から口ひげを生やし、サーベルを下げた巡査が「おい、こら!」と飛び出してきそうな気がした。この建物も残念なことに震災で倒壊した。本館への園路の中程に、現在もある石橋と池と滝口があった。そこから発した山の湧水を引いた流れは林間を下り、東門突き当たり広場の小さな池に注いでいる。紅葉のトンネルをさらに登ると、空襲にあったままの洋館が見えたように思う。外観は現在の鑑賞温室の外壁に似たレンガタイル張であったが、鑑賞温室建設に伴い、完全に取り壊された。また洋館の西側には、現存する日本家屋があった。これは庭とともに須磨離宮公園に引き継がれ、和室のまま茶室や集会所等として利用されている。この和室は当初の日本家屋を戦災で焼失した後、戦後に急いで普請されたらしい。戦火のためにもろくなった大灯籠や沓脱石も痛々しい。この本館の高台は海が展望できたようだ。しかし、今は阪神高速道路神戸線のため、海は見えにくい。洋館と日本館があった丘の頂(今の鑑賞温室と和室)の北側に、テニスコートや園遊会に使われた広場が今もある。その西側には今も当時のままに近い滝と池がある。さらに現在の花の庭園と園地管理ナーサリーステーションのある詰め所あたりには、専任の庭番がおり、広大な園地管理用のバックグランドとして温室等の施設があった。
■旧岡崎邸園路 | ■鑑賞温室 |
ところで、旧岡崎邸は山崎豊子の小説『華麗なる一族』のモデル地と噂されたこともあるが、昭和48年4月10日、20日、30日と発売された上、中、下巻の帯(腰巻き)には『この小説は特定のモデルはない。しかし描かれているものはまぎれもない"現代の真実"である!』と、あくまでもフィクションであるとしている。分園を散策するにあたって少し想像を膨らませてみたい。この小説は近年、不祥事の多い銀行問題を鋭く浮き彫りにした名作と思う。小説では阪神銀行(旧神戸銀行か?)頭取万俵大介の邸宅は阪急岡本駅の山手、天王山にあったとされている。しかし西洋館と日本館の対、門から本館までかかる時間、途中の石橋、林間の流れなど、邸宅の描写は分園の情景になんとなく似ているような気がする。また万俵大介は本館に妻寧子と愛人相子と妻妾同居の生活を営んでいる設定になっている。そこで岡崎邸跡地の本館と東門横の若木荘との二つの建物の位置関係が妙に淫らな思いを想起させる。
3.現存する離宮
明治30年(1897年)6月、宮内省は皇太子殿下(のちの大正天皇)海に臨んだ避暑地として、熱海、須磨、明石(明石城跡)、舞子を候補地として挙げた。最終的には須磨と明石に絞られ、結局明石に決定したが、明石離宮の造営は進まなかった。逆に宮内省は明治40年(1907年)、須磨の西本願寺貫主大谷光瑞の別荘を買い上げ、離宮造営に着手、大正3年(1928年)に竣工した。これが武庫離宮である。武庫離宮の命名は、『日本書記』に記されている孝徳天皇が有馬温泉に行幸したとき、武庫川河口付近に行宮を営んだ故事にちなんだものといわれている。もし、明石離宮が造営されていれば、きっと明石のタコが献上されたことだろう。宮内省が明石離宮の決定を覆して須磨の地に離宮を決めたのは、背後の緑豊かな六甲山系と前面の海原を借景とした自然の地の利を得た眺望や観艦式が望める展望のよさからであろう。昭和20年12月、武庫離宮は宮内省より神戸市に下賜、ついで進駐軍に射撃演習場として接収された。現在のレストハウスのあるテラスは、この射撃場の地形を巧みに利用して設計されている。すなわち、射撃は海側からレストハウスの方向に向かって行われたものと思われる。その後接収は解除され、昭和42年5月、皇太子殿下(今上天皇)ご成婚記念事業須磨離宮公園は正式に開園した。
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■離宮公園本園の噴水カスケード | ■中門 | ■潮見台(御影石造り) |
なお、戦災で御殿は焼失したが、正門、中門に向かう園路、亀甲積み、斜面上の白壁の塀、石造りの狛犬に守られた中門、前述の石造潮見台など旧武庫離宮時代のセンスのいい、質の高い構造物が残存している。特に正門両袖や正面園路沿いに土留めとして積まれた亀甲積みや正面園路右手の斜面にはまるで自然の風情で露頭している巨大な岩に見える寄石岩組などは、匠の技のさえを感じる。また噴水のある本園の東には煉瓦と花崗岩の切石でできた、みごとなアーチのトンネル(幅2.5m、長さ20m)はすばらしい。このトンネルの精巧な技術は須磨離宮公園の山中でも見つけることができる。非公式に『天皇の水』と呼ばれる旧武庫離宮の水源は、高尾台団地に通ずる道路の高尾橋付近から天井川の源流を訪ねるように谷に沿って遡上すると、石造りの堰堤でしきられた100トンほどの貯水池だ。今はもう水道水に切り替えられて使われていないせいか、水の色は底に溜まった落ち葉の色を反映して龍のような何か主が住んでいそうな感じで黒く神秘的に見える。石を投げ入れると、底に到達する様子が窺えるので、深山の底なし沼のようなイメージに反してとても澄んだ水が湛えられていることがわかる。そしてこの貯水池は湧き水だけが溜まるように工夫されていた。すなわち通常の雨水は貯水池の横に掘られた、本園東にあるトンネルとそっくりな構造の隧道を流れて下流に至り、貯水池には流入しないようになっている。この貯水池はどんなに日照りでも枯れたことがないことから、六甲山の水が花崗岩層をくぐり抜けてここで湧き出しているのであろう。往時はここから谷沿いに敷設された4インチの鋳鉄管で現在の本園のこどもの森にあった配水池まで自然流下式で配水されていたようである。『天皇の水』は花崗岩地層をくぐり抜けた天然の濾過作用ですこぶる美味で安全な水であったようだ。今もこの水源の下流の堰堤で誰か民間人の手によって保健所の水質検査結果が掲げられ、近隣の人たちの水場になっている。
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■天皇の水 |
4.近年の離宮公園
須磨離宮公園本園の庭園様式は、フランスのパリ郊外にあるベルサイユ宮園を参考にしていることが窺える。それはまず、海から離宮に至る低い土手の上に仕立てた松を植えた離宮道は、ベルサイユ宮園に向かうダブルのマロニエの並木道で飾られた三条の大通りに似ている。また遠く海を借景にするなどベルサイユのフランス式整形庭園を意識しながら、離宮の地形にあわせたイタリア式露壇庭園の様式も取り入れている。噴水など水については、デンマークのチボリ公園を意識したと設計指揮者の手記が残っている。分園の『花の庭園』はベルサイユの大小トリアノンのイメージを強く感じる。また須磨離宮公園の菖蒲園辺りはマリーアントワネットが愛した田舎屋の雰囲気を持っている。ベルサイユというと、薔薇。須磨離宮公園もこれからは優雅な王朝文化を彷彿とさせる薔薇や蘭などの収集に心がけたらどうか。その意味で薔薇園の充実や王侯貴族ゆかりの薔薇の収集など近年の須磨離宮公園の努力を見守りたい。次に園外の景観問題である。これは須磨離宮公園だけではどうしようもないことであるが、その意図を知っておくことは総合的な都市計画において重要なことだと思う。須磨離宮公園にとって瀬戸内海の借景は生命である。旧武庫離宮や開園当時の写真を見ると、海との間の市街地の建物を隠す必要もなく前面の樹木も低く抑えられ極めてすっきりしている。また本園のキャナルの中心線上のビスタとして、かっては須磨海浜公園の赤灯台があったが、シーパールの出現により損なわれたのは惜しい気がする。
■王侯貴族の薔薇 ダイアナ・プリンセス オブ ウェールズ | ■『ロシナンテは転倒した』ドンキホーテ シリーズ |
さて園内に設置された1975年開催された大阪万国博覧会ギリシャ館のポセイドン像、ド ンキ・ホーテシリーズ『ロシナンテは転倒した』を含めて11作品が設置されている。これは1968年に"夜(光)・風・水"の3つの主要テーマを掲げて招待形式による『須磨離宮公園現代彫刻展』が始められ、その後ビエンナーレ展として宇部の現代日本彫刻展と交互に現代彫刻家の登竜門として開催されてきた貴重な軌跡を物語っているとも言える。そして須磨離宮公園は1998年新世紀への礎をテーマに開催された第15回まで、初年度に発表された【モノ派】の代表格関根伸夫『位相=大地』以後、宇佐美圭司、河口達夫、福岡道雄、若林豪、宮脇愛子、村岡三郎、植松奎二、青木野枝など幾多の彫刻家が出展する野外彫刻展のさきがけとして重要な役割を果たした。幾多の偉才を輩出したこの彫刻展も全国でたくさんの類似彫刻展が開催されるようになり、一応その当初の使命を果たしたと言うことで第15回を持って終了した。何か寂しい気がする。新しい試みを模索すると言うことだが、期待したい。その意味で去年開催された『島袋道浩展 帰ってきたタコ』は特に意義深いものである。
●参考文献等 "地名でたどる小さな歴史" 橘川真一編著 神戸新聞総合出版センター "新 神戸の町名" 神戸史学会編 神戸新聞総合出版センター
"兵庫県立舞子公園百年史" (財)兵庫県園芸・公園協会 "須磨ニュータウンの史跡" 川口陽之著 北須磨文化センター など